日別アーカイブ: 2011年1月22日

無為自然

人智を捨て「無為自然」に還るために
人智の象徴であるテクノロジーを捨てる解釈がある。
(例えば、産業界は「無為自然」は
東洋的な哲学だとして実用性の対極に置いている。)
物理的なシナジーによるdoing more with lessの極限が
非物質化するdoing everything with nothingであり、
ついに「無為自然」に到達するならば、
テクノロジーは先験的に自然に内在するだろう。
この先験的エフェメラリゼーションの原理を
数学的に工学的に変換するシナジェティクスは
「無為自然」を無機化学的に再構成し
視覚化することに成功してきた。
しかし、バイオスフィアにすでに実在する
「無為自然」(例えば、大気中の酸素の一定な含有率)に
課金メーターを付加できないことを
知っているグランチは
人々にテクノロジーを悪いモノだと思わせてきた。
その結果、人々は無為自然を稀少性に満ちた桃源郷に
求めるようになったのである。
(例えば、ナショナルジオグラフィックが提供する
ネイチャー映像システムに組み込まれた写真家と
世界中に待機しているその予備軍への配慮、
科学者でさえその映像に魅入ってしまう。)
それこそが21世紀のエコロジー運動の主要な戦略であった。
そして過去最大のこの非政治的な心理戦争に、
膨大な資金が使われてきたのである。
(例えば、先進工業国のエコ減税はその僅かな部分だ)