月別アーカイブ: 2014年8月

原住民(aborigine)

アボリジニ(aborigine)とは、原住民という意味である。
狩猟採集生活を営む先住民をアボリジニと呼んだのは
イギリスによる植民地化政策からである。
アボリジニ(aborigine)とは
ab-originalであり
<最初の剥奪>という意味がある。
abortionが妊娠中絶を意味するのは
<最初の発育状態から除く>行為だからである。
発端や発祥(origin)は
後から来た大多数によって
より少数のアボリジニ(aborigine)にされてきた。
排除されるすべてのアボリジニは
本質的に宗教組織を含んだ世界権力構造と対立する。

人工中絶(abortion)

頭を切り落とされたトンボは飛行しようとする。
頭を切り落とされた鶏がしばらく走り回るには
物理的な反射システムが必要だ。
反射作用の集積と統合によって
生まれてくる胎児を物理的な生命として認識できる。
意識(consciousness)とその独自性は
誕生という概念以外では捉えられない。
気づき(awareness)は
物質的であり、誕生と共に始まる。
この気づきは、子宮内での受精直後から始まると考えられる。
人間がこしらえた計画などの失敗や挫折なども
概念的に<中絶>または<できそこない>と考えているのは
宗教がこの哲学的な認識の形成に深く関与してきたからである。

自己イメージ

自己イメージは、言語の習得と共に他者によって完成される。
他者とは、そのほとんどが家族や友人そして学校である。
シナジェティクスのモデル言語は
宇宙との相互作用によって
その自己イメージを砕くようにして成長していく。
宇宙の固有性や異質性は
外部性だけではなく
自己の内部をも形成する。
<宇宙とは自己を含むすべて>R.B.Fuller

地球温暖化説

昨晩のNHKでは
広島の大規模土砂災害が
地球温暖化説をもとに解説された。
地理学なき土地資本主義の犠牲者は
間違った理由からふたたび埋葬される。
局所的な事実にこだわる科学者を信じてはいけない。
彼らが終身雇用された国家公務員だからではない。
二酸化炭素をお金と交換するシステムに、意志を託してはいけない。
そのシステムが原発を輸出しているからではない。
真実は、事実を統合したものではないからだ。
事実はつねに編集され、真実は発見されるのみである。

反対称性

多くの女性は男性を変えようとする。
同時に
多くの男性は女性を変えようとする。
このタイプの鏡像的対称性は理解しやすい。
問題は、その後の非鏡像的対称性にある。
変えることに成功すると、その男が好きでなくなる。
同時に
変えることに失敗すると、その女がより好きになる。
この非鏡像的対称性を反対称性として最初に認識されたのは
第2次世界大戦後である。
反対称性の概念は未だ十分に理解されていないが
自然の内部に存在する。
1981年、シナジェティクスはこの反対称性モデルを発見している。

教師

教師とは
教師が他の教師を教えることに成功した
訓練された再分配システムのことである。
創造性は
この再分配システムに不要であるばかりか
分配の効率を阻む存在である。
こどもの個性と自由は
この分配の効率の範囲内で許容されているに過ぎない。
外部のすべての教師は
時代遅れである。

科学教育

原理を発見した科学者が
その原理の仕組みを論理的に説明できるが
なぜ発見できたかは論理的には説明できない。
自然に関する論理性は
原理の発見後にしか再構成できないのである。
ほとんどの科学教育理論は
原理を発見した科学者自身がこしらえたものではないかぎり
人間が望んでいる論理性に偏向し過ぎている。
科学的な思考方法や専門化された公式などが
教育できているだけである。
つまり、科学を構成しているすべては
教育できないのである。
この事実を教育する教育理論は希有である。

体内殺菌剤

水泳やラフティングをすると
耳垢(ear wax)は急激に増大する。
耳垢が弱酸性で
殺菌剤としての役割を果しているだけではなく
防虫効果があるのは
人間の長期的なアウトドアでの生活から生まれたのである。

破壊

古いものが再び現れるには
新しいものがすべて破壊されなければならない。
利潤のみを増大させるために。

陳腐化のためのテクノロジー

科学研究の目的は実用化への口実を元に
科学テクノロジーは実際は記号テクノロジーの変形となり
しばしば補助金獲得の競争になっている。
権力テクノロジーに接近し集結した科学研究者という組合同業者の中では
あるがままの自然を理解するための実践はたえず後退している。
懐胎期間を超える真の実践は
補助金獲得によって、記号化された実用化とは異なる。
なぜなら、懐胎期間を短縮する真の実践こそは、
権力テクノロジー自体を深く陳腐化するからである。
陳腐化のためのテクノロジーは
人間の目的意識や欲望の物質化ではなく、宇宙に属する。

砂のデルタ都市

この大規模災害で人生が変わるのは運命とは言えない。
広島はいまでも砂のデルタ都市だ。
太田川はこのデルタ都市を形成した大河である。
広島の八木地区はかつて太田川の堤防沿いに拡がる
美しい梅林で、徒歩での春の遠足を思い出す
沢や谷を宅地に偽装して
住宅を買わされた人たちは
古い土地資本主義の未来の犠牲者だった。
観測史上記録的な豪雨といった誇張した気象現象に原因を求めるよりも
無謀で悪質な都市計画と土木事業を批判する古典的な地理学が不在なのだ。
この災害が地球温暖化説で説明されるのはもっとも虚しい。
自然気象を偽装できるほど、人間は自然を知らないまま
砂上都市はつねに流動する<浮かぶ都市>なのである。
実際、広島の地下鉄のインフラが整備できたのは20世紀後半になってからであり
しかも本通 – 県庁前間の0.3kmしか建造できなかったのである。

Doing everything with nothing

すべての原子は互いに掛け替えられ
掛け替えられる毎に劣化しないのである。
掛け替えのない
唯一無二の美や心の優しさ、喜びが
個人の生活を支える根拠と見せかける社会が
戦争の根拠を捏造し
疫病の恐怖で人々の行動を制限し
われわれを徐々に破壊しているのである。
夕暮れから焚火をして
星々の瞬きと共に眠りにつく前に
焚火の炎よりも輝く
流星群を見る生活を記憶した末裔までも
殺してしまったのである。
唯一無二の網膜を超えた解像度でさえ、再び、
無限に掛け替えられる美や心の優しさ
そして、喜びを見ることはできない。
原子の役割が原子周期律表に記載されなかったように
人間の役割が、まだ記号化されていない惑星にいる。

環境デザイン

実践によって環境をデザインできる。
しかし、環境を支配できないのは
人間は環境の一部でしかなく、
どの部分からも全体から見通すことすらできないからではなく、
「環境とは、自己を除くすべて (R.B.Fuller)」だからである。
そして「宇宙とは、自分を含むすべて (R.B.Fuller)」であり、
自己を除外して全体は存在しないからである。
環境デザイン理論は、洞察の一形式であり
ダーウィンから始まった生態学的思考形式の一つのタイプでしかない。
環境の部分も全体も
自己を除いて互いに繋がっているにすぎない。
こうして、科学的行為に自己を除いて
投影された理論を求めている人々を
知的だと考える習慣がまだ生き残っている。

ハイエンドユーザ

テクノロジーの超専門家になろうとする若者たちは
原理の発見者とその概念化に失敗しても
たいていそば屋かうどん屋で生活できるとは考えていない。
だからこそ、才能が開花しない場合
権力構造と権力テクノロジーの虜にされる。
動機なき超専門家を試行する人間に
思考言語(thinktionary)の形成は困難である。
彼らが記号テクノロジーの
ハイエンドユーザであるかぎり
動機なき超専門家を教育するシステムは存続する。

科学論文

科学論文投稿までには
「1. 着想・企画、2. 実験の実施、3. データの解析と図表の作成、
4. 論文の文章の書き上げの4段階」があるらしい。
科学的発見の過程に
科学論文の記述方法の天才性などは介在しない。
なぜなら、科学は<着想>から始まるのでなく
<発見>から始まるからである。
優れた<着想>を作り上げるための科学論文の記述方法の天才性などは
専門分化に従事する専門家たちの自惚れである。
原理の発見者とその概念化におけるパイオニアは、
しばしば、論文のレフリーや熱狂的な投稿者とは無縁な生活をしている。
シナジェティクスは学会を形成しない純粋科学における
探究方法を開発してきた。

生息地(=habitat)

エアコンや冷蔵庫、そして携帯電話などの省エネには関心があるが
大多数の住居の空力抵抗や奪われる熱エネルギーを軽減するデザインには
人々はまだ無関心である。
切り取られた大地を所有して
固定され静止したままで再び所有される不動産で
富を増大させる土地資本主義を
最優先してきたからだ。
自然の富の形成方法は
個人の富を増やす手段とは
とは無関係である。
生息地や住居環境(=habitat)を
自らこしらえる時間と技術を他者に依存するのは
哺乳類では人類だけだ。
グランチの最初の生息地は
行き過ぎたこの専門分化を維持できる場所だったのである。

アブラコウモリ(Pipistrellus abramus)

この季節の油蝙蝠は
19時30分に外出し、4時30分に空から帰宅する。
私が仕事する時間は、
コウモリと完全に反対称的である。
一回の飛行で餌となるカやガ、 ハエ、ユスリカなどの
小型の昆虫を体重の半分近くの3グラム程度食べるらしい。
低速で飛行するわりには彼らの捕獲が困難なのは
自在に角度変化できる主翼の手と共に
コウモリの長いしなやかな三角形上のしっぽに
優れた尾翼の機能があるにちがいない。
コウモリの全長はこの折りたたみ可能な
尾翼のために極めて測定しにくい。
飛行中の撥水性を帯びるために
油を塗ったような体表の触感が彼らの名称である。
空中や水中を移動しながら捕食する
生命体は移動エネルギーを確保する以上に
生存のためのエネルギーを保存するために
空気や水の抵抗を軽減する形態をデザインしている。

wp_xlarge_20100910_6-thumb-500x375-37

告白(profess)

プロフェッサー(professor)とは
信仰の告白者へのレッテルであった。
さもなくば、眼鏡をかけた賭博師か
酒場のピアニストであった。
20世紀のプロフェッショナルとは
知識を商売にする人々である。
その語源は
自己を偽って称して生きる者たちへの
揶揄であった。
シナジェティクスに教授は不要だ。
自己と宇宙の無数の動的な関係に
人格は介在しない。

計算法

数学の種々の計算法のいくつかは
いわば人間の虚勢ゲームとして登場した可能性がある。
グランチには
その盲目的な人間の虚勢方法を
独占する価値があったのである。
学生の数学の才能のほとんどは
その計算方法に適応する能力として
認識されている。
シナジェティクスは
自然に内在する数学システムを発見するのみである。

否定のシナリオ

政治家の口から出る「はい」は
肯定ではない。
否定の否定のための
シナリオにしたがった否定的プロセスである。
二重否定は、退廃した植民地の民主主義だ。

気象兵器

自然の作用を意図的に操作によって
地球または宇宙空間の構造と組成パターン、そして運動に
変更を加える気象兵器のテクノロジーが
どれほど意図的に予測的に環境を改変しようとも
自然や人間に損失を与えるかぎり
恐怖から生じる無知であることには変わりない。
自然に異常気象はない。
あるのは、加速する気象兵器のテクノロジーと
気象兵器の存在を無視した気象統計学と
超専門分化した予測能力の不足だけである。
自然に人工気象は存在しない。
あるのは、テクノロジーを作り出せると思い込んでいる
人間の思い上がりだけである。
気象兵器をデザインできても
バンアレン帯を人間がデザインしたわけはない。
「環境とは自己以外のすべて、宇宙とは自己を含むすべて」 R.B.F

預金システム

必要な時に必要とする人が使えるように
安全で信頼できる
預金システムは
技術的にはすでに可能だ。
しかし、世界中の銀行システムは
預金者が預金した瞬間から
だれも追跡できないように
どこかへ消えてしまうだけではなく
意図的に使用できなくさせる
基本的には奪う側のシステムである。

概念

気づけば気づくほどまた疑いたくなる。
疑いによって、自己は変わらない。
経験すればするほど
知識はなにも変えないことに気づく。
しかし、概念を破壊しないかぎり
経験も自己も変わらない。
概念を破壊すれば
自然にもっと学びたくなる。

空気

経済的な自由のために
いたる所で見えない鎖と金利に繋がれていることを
人々が学ぼうとしない空気を作り出している。
戦争機械を動かすには
絶えずこの空気が必要なのだ。

生活

生活費を稼ぐ仕事によって
愛することを忘れてしまうのである。
それは好都合な逃避なのである。
しかし、死は愛よりもすべての逃避を否定する。

宇宙はテクノロジーである

原爆の日にヒロシマにいる。
「バックミンスター・フラーの1927年の認識(メタフィジクス)は
エコロジーを有限なバイオスフィアにだけ求めるテクノロジーと対立してきた。
産業社会が生き残りをかけたテクノロジーは
92種類の再生的な化学元素を発明したわけでも
あらゆる生命を維持するこの惑星を発明したわけでもない。
人間がどんな生命にも容認される方法で
基本的な環境の変化に適切に意識的に関与できるテクノロジーは
つねに発見されてきた。」
このテキストは『宇宙エコロジー』が出版された2004年に、
私が本の帯に書いたものである。
惑星地球用の局所的エコロジーは、二酸化炭素を増加させない
原子力エネルギーを容認してきたばかりか
軍拡を制御することはできなかったのである。

空虚

経験には
他人の知識が含まれる。
そして、噂話や会議や儀式までも。
こうして経験は次第に
空虚で満たされていくのではなく
空虚から逃避する方法を巧妙に蓄積しているのである。
死は儀式によって
無からさえも逃避していくのである。

残像(after image)

遅延は
生命現象のすべてに横たわる
逸脱現象である。
遅延とは
認識できない<無>との間隔である。
人間はチンパンジーよりも
はるかに長い間隔を持っている。
人間が認識するためには
曖昧な残像を待たなければならない。
そして、その残像を言語に変換する。

知性

アナログかデジタルかを比較する知性は
経験か知識かを比較するよりも
未熟な知性である。
しかし、包括的理解には
アナログかデジタルも
そして、経験も知識も局所的すぎる。

視覚

テンセグリティ構造に至っては
触覚から思考する意味は
ほとんどないのである。
圧縮力と張力の相互関係は
部分的な触覚情報からは
理解不能である。
さらに、シナジー作用は
視覚情報からも理解は困難である。
それはすばらしいことではないだろうか。

触覚

生きるための重要な判断は
触覚に委ねられている。
直接モノに触れる感覚器からの情報に依存している。
モノに触ることから
思案しはじめる傾向が生まれる。
そして価値を判断するために
どんなモノ(自動車やパソコン、そして不動産など)に対しても
手で触れるという無意識の行為を引き起こしている
にもかかわらず
触覚に依存した判断結果は
信頼するに乏しい。