月別アーカイブ: 2008年4月

危険な彫刻

スネルソンはついに本質的なテンセグリティを制作しなかった。
テンセグリティは彫刻には最適であるが、
建築の構造体としては危険な構造体であると考えている。
つまり、彼の彫刻は危険なミニチュアの構造だ。
張力が統合する完全無欠な存在は、
美しい錆びない彫刻でも構わないが
美術館の庭から眺めるだけでは退屈だ。
もっとも物質を使わないで
もっとも大きな空間を覆うことができるテンセグリティは
太陽系のような大きすぎて見えない動く彫刻だ。
しかも永遠に浮遊している。
これ以上安全な彫刻があるだろうか。
テンセグリティは、構造の作用力を最適化した、
本質的にリダンダンシーのない集合体である。

自然を模倣する

シナジェティクスは自然に学ぶ。
そして、テンセグリティを発見した
しかし、「自然を模倣する」ことからではなかった。
自然の原理が、形態の観察から発見されるなら、
細胞がテンセグリティであることは、
19世紀までの顕微鏡の機能から発見できただろう。
生物学は20世紀の電子顕微鏡でもテンセグリティ構造を観察できなかった。
テンセグリティ原理を学習して
細胞を顕微鏡で見ると、細胞は実際テンセグリティとして観察できる。
生物学の構造の定義は1世紀以上も細胞壁にあった。
(たとえば人体は1兆個の小さな柔らかい壁の集積として定義された。
城壁が国家の閉じた領土を表すように。)
異なった現実は最小限の構造単位に対する概念の違いから発生する。
概念は観察できない。
「自然を模倣できる」のは形態のみである。
自然という一つの現実のほとんどは、未知である。
それゆえに、シナジェティクスは自然に学ぶ。  

テンセグリティ

技術的に無知であればあるほど、適用する安全係数は大きくなる。
直径に関わらず、ジオデシック・ドームが経済的にデザインされることは稀である。
2×4材を使った合板ベニヤなどのドームハウスも
安価といわれる竹ドームにもアルミパイプドームにも
過剰な物質が使用されている。
もっと実験が必要だ。
つまりテンセグリティを学ばなければならない。
テンセグリティは理論でもオブジェでもない。
生き延びる道具だ。

津波

自分が希望する受験科目には膨大なエネルギーがいるので
誰でもより少なく学びたいと思っている。
学習塾はこのノウハウを持っている。
しかし、新しい経験をするたびに、人間はより少なく学ぶようには
デザインされていない。
両親の間違った愛情は、
10歳から11歳までの一度しかない知的爆発の時期に
こどもを学習塾のノウハウで訓練させることで、
もっとも重大なブレインダメージを与えているのである。
知的爆発とは、経験の秩序化のための最初の津波である。
時速500キロのソリトン波なのである。
線形波のような拡散しようとする作用に対して
それを集めようとする作用が生成し自身の形態を保つのだ。
この機能を学習塾に期待するよりも前に、
子どもは、生得的に、すなわち無料でレッスンを受けているのである。

ドメイン

子どもは積み木が好きだ。
子どもが好きなのは立方体という形態ではなく
それらの結合の方法である。
自然はもリンゴも卵も星も、そして子どもの頭蓋も
立方体以外にデザインした。
われわれの環境だけが立方体で満たされていることは
偶然ではないだろう。
月や火星計画で立方体の装置がほとんど採用されていないのは、
立方体が効率的になるような法律と社会は
大気圏外では効果的に機能しないからだ。
シナジェティクスに積み木という概念は存在しない。
空間は領域(ドメイン)に分割できる。
最小限のドメインを集積するとほとんどは立方体にはならない。
(つまり、立方体は最小限のドメインではない)
最小単位としてのドメインはすべて有限な種類の4面体モジュールとして
この半世紀間に発見されてきた。
4面体モジュールは子どもにとって、積み木よりもおもしろい現実にちがいない。
シナジェティクス・モジュールに関する唯一の日本語の書物は
『コズモグラフィー』シナジェティクス原論
バックミンスター・フラー著(白揚社 2007)である。

責任

巨大プロジェクトに従事させる開発者に
プロジェクトに見合った責任をもたせないのは、
知性が低下するからである。
政治家が兵器の製造や購入の権限を軍部の専門家に委譲したのは、
政治家もまた責任よりも知性を重んじたからである。
あらゆる兵器はこうして開発されている。  Y.K

排他的

思考は限定的である。
思考する前にやってくる経験は、包括的である。
非経験的知識(たとえば講義やインターネット情報)に
依存して思考すると
排他的にしかならないことを意味している。
しかし、このことが深刻になったことがない。
排他的なほうが簡単だからだ。   Y.K

イメージから

「塵も積もれば山となる」
どんな微少な存在も質量をもっていて、やがて
目に見える鉛直荷重的存在となる場合があるので、
小事をおろそかにするなという戒めから
平凡な蓄財経験主義に堕落したモラルになる。
部分的な仕事を繰り返しても、
日々の蓄積に期待する大変化はやってこない。
個々の出来事の相互関係から全体像はつねに描かれない。
ある日突然、全体像の向上が感じられた時が、
分節化の始まりと考えられる。
ここには鉛直荷重だけで集積する単純な山はなく
出来事の相互関係という張力が介在する。
張力は距離にも断面積にも制限されない。
分節化という最初の統合化の兆しは、
イメージを伴う動詞に表れる。
「はじめにイメージありき」
全体は積もった絶対量ではなく、
質量のないイメージから始まるのである。  Y.K