月別アーカイブ: 2015年3月

「事実無根」国家

小説は虚構である。
映画も同じである。
政治は、嘘のシナリオをメディアを使って現実化する。
新聞もテレビも、そのシナリオを
自主的に忠実に報道しているだけである。
報道の自由は、権力によって守られているので
嘘のシナリオ以外はすべて事実無根を根拠にして
拡大できる。
優れた嘘をこしらえるシナリオライター達の養成に
軍事費が使われているのが彼らの最大の弱点だ。
「事実無根」は権力欲で維持されているだけだから。

シナジェティクス焚火

静止している部分はどこにもない
炎の安定を望むなら、
動的な平衡を理解しなければならない。
例えば、丸太だけで、ベルヌーイの流体理論を
応用した炉心と煙突は形成できる。
私は発明したこの焚火の方法は
濡れた倒木の丸太しか手に入らない森の生活では不可欠である。
焚火の調整可能な炎と遠赤外線によって
調理のためのエネルギーと乾いた服
そして、温められて開いた毛細血管を得ることができる。
そして、春の星空の下で
深くて厚いダッチオーブンから
サツマイモと里芋や、かぼちゃの丸焼きは
すべてのレシピと調味料を遠ざけるだろう。
原型的なデザインサイエンスの遂行には
シナジェティクス焚火は不可欠である。
しかし、見覚えのない炎の記憶が呼び戻される
このシナジェティクス焚火とその原理を習得した人は
人類でまだ数人もいない。

ニーチェの馬

3.11以後、天安門事件の時より
厳しい報道規制をかけたメディアに
報道の自由は最初からなかったのである。
その後、彼らは自主規制に見せかけながら
グランチの報道官に変貌することで
身の安全と永続性を優先する行為によって
真実はいまも被曝しつづけている。
メディアの自由からの逃避によって
やがて勝ち馬に乗り遅れた人々の
生活が押し寄せる。
水と米と塩を買わなければ生きていけない場所に
閉じこめられたまま。

戦争機械

ジャーナリストが
ジャーナリズムにプロが必要だと考えている理由は
表現の自由を維持するためには
スポンサーに取材費を負担させる
資格(優れた情報収集能力と分析力に対する)が必要だと考えているからだろう。
プロのデザイナーにクライアントがいるように。
しかし、ジャーナリストの表現の自由には限界がある。
解雇されたら仕事がなくなる怖れを自ら克服する自由が
最初に除外されている専門分化の階層構造に住んでいるからだ。
資金を提供する側が最終的な意思決定力を持っているかぎり
すべての専門分化を自負する人々に、プライムデザインは存在していない。
そして、軍隊のない資本主義が存続できない政治指導者たちの怖れから
見えない戦争機械は、日常的に無意識に広範囲に製造されて
インストールされている。
つまり、あらゆる職業がいずれ絶滅するように
宇宙のテクノロジーが漸進的変化を遂げていくなかで
名誉と生活費を稼ぐ専門家たち、つまり戦争機械は確実に黄昏て行く。
それを危機的に感じないのは、
<unknown>を自覚した無数の群れにいない自律した個人である。
無力な専門家がうごめきながら死に絶えていくこの地球惑星は、
遠隔操作される火星よりはまだ希望がある。

二重性

感じたことをいかに隠せるかを
学ぶのは、早い時期だ。
本に書いてあることを
いかに自分の考えとして表現できるかを
習得するのはそれほど難しくない。
これらの二重性は、群れとして生存するための
条件反射から形成される。
独創性は、この表面化させたくない内面の葛藤なくして
引き出せないのではなく
群は統合された宇宙の知性には到達できないのである。
あるがままの存在は
いたるところに存在しているにもかかわらず
それらに包まれて生きる場を
人々が自ら拒んでいるシステムがあるかぎり。

客観的エスプレッソコーヒ

エスプレッソコーヒを飲むと
その刺激がどれだけ強く激しく依存する関係を生むことを理解するには
エスプレッソコーヒを3日間だけ飲まないで生活するときの
激しい偏頭痛を経験しなければならない。
しかし、激しい偏頭痛の原因を
その刺激と関連づけることができない場合
人々はコーヒを再び飲み続けるだろう。
だから、心が敏感で感覚的に澄んでいるときに
エスプレッソコーヒを飲む重要な実験はほとんど困難なのだ。
この操作主義の実験には、外部と内部の観察者が必要だ。
先週私は、幸運にもその両方の実験に成功したばかりだ。

時間

人がそれぞれの速度で歩くように
それぞれの時間が過ぎていくように見える。
異なった自己を発見すると、時間も入れ替わっている。
朝起きた起きた時、昨日までの時間と同一であるとは限らない。
しかし、時間自体の速度は生きている間は
分からないようにデザインされている。

バージョンアップからの離脱

シナジェティクスは
幾何学をバージョンアップしたのではなく
それを陳腐化したように
包括的な思考は、しばしば
惑星地球上の古い思考形式を支えてきた諸概念を
絶滅させる思考のテクノロジーを発見する。
それらの絶滅は危惧すべきではなく
その起源とともに忘却できるのである。
新たな生存形式との調和のために。