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復興資本主義

大規模な復興の実態とは
耐震設計以前の構造救済の形態が
構造の貧困化の最大の原因であり
あらゆる生産的で安全な空間構造への
法律的な漸進的固定化によってもたらされる
固体的構造の緩慢な死は
つまり、40年以内だ。

リセットしない復興システムの
緩慢な死こそ
復興資本主義の強欲な形態でもある。

非再生的な固体

なぜなら、「宇宙には固体は存在しない。」RBF
そして、固体物理学も存在しない。

固体(solid)という概念が
防波堤やビルディングの強度と剛性に対する
願望を存在させているのである。

短命な固体こそ、分子的に変化し崩壊している。

実際、その寿命は実質40年間であり
非再生的で短命である。

無秩序の秩序化

「防潮堤は景観だけでなく目の前の津波襲撃を
ブラインドする凶器の遮蔽壁となった」

津波に対する防波堤は
土木工事で富を稼ぐための
コンクリート(=固体的)な思考そのものである。

セメントで凝固させた硬化物(コンクリート)は、
無秩序の秩序というものを
分子的なレベルで組織してきた。

その無秩序な防潮堤は都市を取り巻いている。

無秩序の秩序化は
権力テクノロジーの基本的な方法論である。

防潮堤ほど、権力テクノロジーによる非構造化を
視覚化している高価な固体はないだろう。

無媒介な力

権力は、イデオロギー的ではなく、無媒介な影響力によって
無益な学習と労働を強制しつづける。

住宅とその所有にかかる金利合計は
最大の無益な学習と労働を生む。

動くテンセグリティシェルターのデザインは
反権力的構造に根ざしている。

つまり、イデオロギーによる反権力的構造ではなく
太陽系の引力、つまり宇宙における重力はつねに無媒介である構造を
生命が利用するデザインである。
(重力波を媒介する粒子は未だ未発見である)

漸進的変化(evolution)

目覚めている間、いつもの思考方法とは異なる思考ですることができるか、
さらに、慣れ親しんだビジョンとは異なる場で知覚することができるか、
そのことを知るための経験が
シナジェティクスを続けるために不可欠である。

そのような機会が訪れるとき
人間はつねに経済的に貧しい情況に置かれているという
傾向が続いている。

それは、驚くべき漸進的変化(evolution)の兆しのことだ。

世の構造

競争や利己心、嫉妬心や攻撃性、貪欲さと妥協心が
生きる上での自然な姿だとして
その生き方を次第に容認していく時、
社会の構造もそのまま受容した
<世の中>で生きることになる。

しかし、その<世>の構造は
自然の構造とはまったく遊離したものである。

世の中で生きるのか、
その前に、
世に出るためにいきるのか、
あるいは
世を出るために生きるのか、
そのどれよりも
だれもがバイオスフィアに
この瞬間に生きているのだ。

その時空を<世の中>から
排除するシステムを受容する人々が
<世の中>で受ける矯正は
自然の構造を作り上げていく峻烈な試みとは
隔絶したものである。

競争や利己心、嫉妬心や攻撃性、貪欲さと妥協心から
自然の構造が形成する統合力は生まれない。

世の構造はこの統合力を奪う側が支持している。

自由と構造ーーー<アンチ・オデッセイ>2

先のブログは、映画<オデッセイ(ODYSSEY)>を見た後の私の感想だ。

火星の土とクルーの排泄物から土壌と水を用意し、ジャガイモの栽培に成功する。
しかし、糞尿のなかで生存する地球上の微生物群なしでは
クルーは火星でサバイバルできないという
NASAがこの映画のために提供した生物学世界像に私はとても失望する。
専門家によるこの生物学世界像は、明らかに微生物学的な水の再生利用方法に対して
無知である、そうでなければ隠蔽しているからだろう。

火星の基地シェルター内部のインフラは
現在の都市のインフラとまったく変わらない構造は
もっとも非経済的であり、絶望的だ。
(火星でのジャガイモ一個あたりの生産コストは膨大である。)

映画<オデッセイ(ODYSSEY)>は、
現在の世界中の都市のインフラを維持推進するための税金収奪を
長期間にわたって合法化する役目を担わされている。

<無管、無柱、無線、無軌道>の<4つの無>を
最新と思わされている科学テクノロジーに対峙させる構造を
デザインする生命が、唯一、太陽系宇宙に適応する生命である。

ありふれた外部

果てしない逃亡よりも
脱獄には外部がある。

宇宙の相互作用と繋がっている
可能な解決を受け入れる
開かれた外部が存在する。

無管、無柱、無線、無軌道で繋がる
ありふれた外部で
ふたたび満たされるだろう。

ありふれた外部を全的に物質化するのは
モバイル生活器である。

生活器へ

プロダクトデザインから生活器は生まれなかった。

デザインサイエンス、つまり
<生存のためのデザイン>と<自己のテクノロジー>の統合性は、
主に建築学と機械工学によって権力テクノロジーと記号テクノロジーに組み込まれ、
さらに、生態学や教育学や医学、そして心理学といった各専門領域に分断されることで、
その重要性と自律性に関与する基本機能をすっかり失ってしまった。

そして生存に必要な最小限の生活器としてのトリムタブでさえ、
無数のアブノックスの偽装された安全率によって、つねに先送りされるのである。

<デザインサイエンス>を
クリティカル・パス方を導入したプロダクトデザインや
科学的なデザイン理論として定義しているかぎり、
<生存のためのデザイン>と<自己のテクノロジー>は
デザインサイエンスの教育過程に限らず、
プロダクトの初段階ですでに排除されたままである。

偽装されたデザインサイエンスに共通する現象は
シナジェティクスの原理への探究心の欠如である。

シナジェティクスの原理への探究なくして、
<生存のためのデザイン>と<自己のテクノロジー>の
統合性(integrity)は生まれない。

安全の概念

自動車や船舶、そして航空機の安全メカニズムと
人口統治という一連の政治的な安全メカニズムに関する安全の概念が
同一視される権力メカニズムを分析しない
疑似デザインサイエンスが、大学で先導的に実践される前に
1970年代のバックミンスター・フラーは、
移動する研究教育機関(Floating University)を構想し創設していた。
(1980年代のバックミンスター・フラー研究所にいた頃、
私はその大学の学生にシナジェティクスを個人教育していた。
たとえば、毎回場所を替えたレストランの窓側で。)

移動しない大学は、土地不動産の管理運営と退職金だけで
教育コストの大半を消費するメカニズムに取り込まれていたからだった。

安全の概念とテクノロジーが、高速で移動するテクノロジーによって
より加速度的に進化しているにもかかわらず。

土地不動産と都市のインフラに縛られた学問は、時代遅れである。