例えば、Facebookで簡単に友達をさがすことができるのは
個人の配置データがあるからである。
20世紀の嘘と秘密を
21世紀でも長期化させるために
CIAが開発したのである。
いまやFacebookに登録していない友達でさえ
より重要な配置データとなっている。
例えば、Facebookで簡単に友達をさがすことができるのは
個人の配置データがあるからである。
20世紀の嘘と秘密を
21世紀でも長期化させるために
CIAが開発したのである。
いまやFacebookに登録していない友達でさえ
より重要な配置データとなっている。
個人を矯正するために訓練するシステムは
個人を管理するための監視するシステムから
逃亡できないように
権力は自らテクノロジーを開発する。
個人がこのシステムの嘘と秘密に関心を抱く前から
個人の配置に関心を抱くシステムは
第2次世界大戦後に始まった。
嘘と秘密の把握からよりも
個人の配置から真実が生まれるから。
個性観と正義観の同一性は
権力の効果であり
その優れた道具としてデザインされている。
移動可能な工業製品のように。
例えば、空間構造は
精神構造を作り出す鋳型なのある。
見えない鋳型こそ
権力によって制限されていることは気づかれない。
たとえば、廊下と結びついた学校の教室は
小さな個室に繋がる病院の廊下のデザインと同一ではないか。
病院の待合室が学校では教員室に変わる程度のデザインで
われわれの個性観が形成されているにすぎない。
窓と自由に開閉できるドアがなければ
どれも獄舎建築である。
〈生存のテノロジー〉と〈自己のテクノロジー〉は
その重要性と自立性ゆえに
デザインサイエンスのクリティカルパス方法に組み込まれたまま
その重要性と自立性に関して
建築や教育、そして数学や医療からも
一定な距離を置いて絶縁している。
こうした道徳的な絶縁は
道徳的主体としての自己組織化のための
自己のテクノロジーを要請する。
重要性と自立性を維持しながら
テクノロジーを発見し、物質に変換するデザイン行為以上の
重要な哲学行為はあるのだろうか。
あらゆる視点から
実現可能な方法を
時間とエネルギーと素材コストから
包括的に思考し、最良の形態とシステムを判断できる人は
専門家ではない。
レイマンしか可能ではないのだ。
つまり、プライムデザイナーは
もっとも純粋なレイマン(complete layman)である。
レイマンとは素人のことである。
21世紀の自動車も飛行機も
シェルターも
この希有なレイマンしかデザインできないのである。
労働力が最も不足している場所は
食料(遺伝仕組換えを除く)と
エネルギー(原子力から生産される電気エネルギーを除く)を
生産する産業だけではなく
全人類を養うための
食料とエネルギーとシェルターの生産方法と手段を
同時にデザインする産業である。
食料とエネルギーを相互に関連させて
生産するシステムをデザインする場所へ
才能ある人間を配分するシステムができていないのである。
つまり、包括的なプライムデザイナーの教育とその方法は
もっとも不足している。
それらを、それらに無関心な政治家たちに委任したから。
カネ、モノ、ヒトとの相互関係からは
創造性、独自性、生産性との統合力を生まなかった。
それらの統合力を実現する方法に
量産性を前提にする時代は終わった。
量産性は
大量の貧困と難民、そして
無限の贈与を生む手段に利用されてきた。
自己のテクノロジーは
同じ金型から量産できない。
太陽系がもし
惑星地球の楕円軌道の中心に2つ存在していたら
日没が2回あるのではなく
年中白夜になっただろう。
そして、世界時計が2つ共存するだろう。
その結果、相対性理論はもっと早く発見されていただろうに。
時計の針も楕円軌道を描くだろう。
現在の1つの世界時計はグランチが支配しているので
退屈な円運動をしているのである。
あまねく宇宙に
1つの中心は存在しない。
人間の生存をかけた闘い理由にしてなされる
最大の正義(Justice)は、戦争である。
生き残る必要性を公平な名目として
殺し合うようにわれわれは訓練されている。
デザインサイエンス革命は、
人類の生存のために
わずかな力で巨大な全体を動かす最小限の<装置=trimtab>のデザインと制作
から生まれる。
デザインナーたちは、
最小限の装置=trimtabとは何かを考える仕事を
自分たちの仕事から最初に除外してしまった。
裕福な人や企業が生き残るために。
真の資本主義的な国家はまだ存在していない。
中央銀行があるかぎり。
真の共産主義的な国家も存在していない。
資本主義がある限り。
しかし、真の独裁国家や軍産複合体はすでに存在している。
権力テクノロジーは絶えず存在してきた。