構造力学は
システムを通過したエネルギーが
そのシステムをより強化するメカニズムには
まったく無関心である。
現在の建築の構造計算は
圧縮力による 座屈(buckling)の言語しか語ることができない。
座屈の概念は、不安定な状態から倒壊という
もう一つの安定状態を説明しているだけである。
ゆえに、構造力学への批判または
構造への批判を通してしか
真の構造は発見されなかった。
構造力学は
システムを通過したエネルギーが
そのシステムをより強化するメカニズムには
まったく無関心である。
現在の建築の構造計算は
圧縮力による 座屈(buckling)の言語しか語ることができない。
座屈の概念は、不安定な状態から倒壊という
もう一つの安定状態を説明しているだけである。
ゆえに、構造力学への批判または
構造への批判を通してしか
真の構造は発見されなかった。
デザインサイエンスが自然と出会うのは、
デザインサイエンスが拡大していく人間の居住可能な領域(=地球惑星の大気圏内)でしかなく、
その結果、デザインサイエンスとシナジェティクスを
大気圏該から支配し自然についての知と人間についての認識の統一的なビジョンとされるような、
これまでの宇宙論的な視点を有する科学哲学は
『コスモグラフィー』(=宇宙起源論)にとって替わる。
経済が、稀少性とオークションいう絶えざる基本的状況を生成する限り
再生的な自然(デフォルト)と敵対していながら、
資源とエネルギーを合法的に奪い合い、
人間は自らの生命現象を
銀河系の特異な存在とする短命で放射的ビジョンの危険性に曝して
それ自身不活発で近視眼的な行為に耽るのである。
生存するには非生産的すぎるこれまでのアーティファクトとノウハウのほとんどは、
権力構造に属する人間が考案した適者生存の産物である。
鯨のネットワークに比較すれば「電力と情報のネットワーク」さえ、
抜け目なく課金するための分断された局所的なネットワークである。
『宇宙エコロジー』バックミンスター・フラー+梶川泰司 著 から引用
両親は、愛情の現れとして
こどもに生命保険をかける。
同じ理由から
こどもに教育投資を施す。
感謝されたいだけではなく
こどもが何を感じ、
何を考えるかには無関心でいられるから。
そして、無関心は、無目的である人生を遠ざけるのだ。
構造とは何かという問いが建築領域で辿った物理的・数学的軌跡は、
建築学ではその問いを退け、
耐震、免震、制振の機能を備えた疑似構造によって
その問いかけは遂に無力になる。
しかし、バックミンスター・フラーの発見において完結する。
すなわち、共鳴型テンセグリティ構造原理の発見。
テンセグリティ構造は、耐震、免震、制振のどの機能も本質的に包含するが
それらの機能のためのどんな部材も存在しない。
テンセグリティ構造には、どんな多重化システムもデザインされていない。
すべての局所的破壊から構造の深刻な破壊に連鎖しないために
優れた外力分散機能が自動生成されているのである。
建築学は、いまもフラーによる決定的な<リダンダンシーという概念の崩壊>を退けている。
予め構造を構造材によって多重化する行為で
そして、人々を構造の安全性への広範囲な幻想に閉じ込めたままである。
シナジェティクスとデザインサイエンスは直接に相互的に作用する。
直観(intuition)が教育の対象にならなかったのは、
直観が内包するメタフィジックスを奪われたからだ。
そして権威と競争に依存する学習に追われている。
シナジーが科学の対象にならなかったのは、
自然が内包する未知を奪われたからだ。
あるいは、宇宙が内包するメタフィジックスを除外したからだ。
そして計算力と情報量に依存する学習に追われている。
科学は、直観と直感を区別することができない。
シナジェティクスは、
直観と美によって初めて
Cosmic Integrityが認識される
メタフィジックスである。
構造が生まれる場所は移動したのだ。
それはもはや大地への重力の流れをデザインするのではなく
クライアントが期待する建築家の閃きにあるのではなく、
言語の内的で交差したモデリングに移動したのだ。
既存のインフラに生存形式を限定している空間構造から
生存形式を開放するために
構造を破壊する。
しかし、無限定の存在が生存方法を
消去した限界に引き戻すために
永遠の構造を発見する。
どちらかが、シナジェティクスで
他方がデザインサイエンスである。
概念と物質は
相補的な行為が非同時的に存在する
<Cosmograpfy(コスモグラフィー)>によって統合される。