コスモグラフィー」カテゴリーアーカイブ

ありふれた外部

果てしない逃亡よりも
脱獄には外部がある。

宇宙の相互作用と繋がっている
可能な解決を受け入れる
開かれた外部が存在する。

無管、無柱、無線、無軌道で繋がる
ありふれた外部で
ふたたび満たされるだろう。

ありふれた外部を全的に物質化するのは
モバイル生活器である。

構造と意味

シナジー作用に遭遇したとき
その超越論的機能において、
経験と意味作用に発生する無数の新たな相互作用を
現実にいかに変換するかにおいて
シナジェティクスは
日常的経験の意味を捉え直そうとする
あるいは
日常的経験の構造を破壊しようとする
自己のテクノロジーでもある。

生活器へ

プロダクトデザインから生活器は生まれなかった。

デザインサイエンス、つまり
<生存のためのデザイン>と<自己のテクノロジー>の統合性は、
主に建築学と機械工学によって権力テクノロジーと記号テクノロジーに組み込まれ、
さらに、生態学や教育学や医学、そして心理学といった各専門領域に分断されることで、
その重要性と自律性に関与する基本機能をすっかり失ってしまった。

そして生存に必要な最小限の生活器としてのトリムタブでさえ、
無数のアブノックスの偽装された安全率によって、つねに先送りされるのである。

<デザインサイエンス>を
クリティカル・パス方を導入したプロダクトデザインや
科学的なデザイン理論として定義しているかぎり、
<生存のためのデザイン>と<自己のテクノロジー>は
デザインサイエンスの教育過程に限らず、
プロダクトの初段階ですでに排除されたままである。

偽装されたデザインサイエンスに共通する現象は
シナジェティクスの原理への探究心の欠如である。

シナジェティクスの原理への探究なくして、
<生存のためのデザイン>と<自己のテクノロジー>の
統合性(integrity)は生まれない。

物質的触媒作用

シナジェティクスは幾何学や数学、物理学だけではない。

学問と共に始まるのではなく、
未知なる存在との境界と
超えるべからざる自然との境界との間(between)ではなく
それらを超えた領域に
シナジーの実在を知るために
シナジーを客観的現象ではなく
操作可能な機能として発見するのである。

シナジェティクス以上の
実在する物質的触媒作用が存在するのだろうか。

客観的行為

リヒテルの平均律を10年間聴いてもピアノは弾けないように
「シナジェティクス」をすべて読んでも理解できないに違いない。

何かを素晴らしいと感じる瞬間が訪れた時、
たとえば、スヴャトスラフ・テオフィーロヴィチ・リヒテルや
バックミンスター・フラーに会いに行くべきだろう。

もっとも簡単なことから始められる
学校での学習や独学から
もし連れ出してくれる機会がなかったら
学校は残酷な場所だ。
対話のない独学はそれ以上だ。

誰かに似てしまう言葉を習得する前に
その残酷な場所から逸脱するのは
最初の客観的行為だから。

これは、もっとも簡単な主観的世界の作り話だろうか。

個人以外に

現実的な生存形式を探査し、その結果を記録し、映像化し、
そして数学的に、そして経済的にデザインする作業を
デザインサイエンスの過程にではなく
客体化あるいは服従強制の生存方法として機能させる目的に従事する人々は
その研究開発費を国家や大学に求めてきたことを疑いもしない。

しかし、20世紀の主要な産業のプライムデザイン
(例えば、自動車やPCなど)に関わったのは
国家や大学ではない。

個人以外に宇宙の原理を発見する機会を求めないという
経験的事実はまだ社会的知性ではないのだ。

概念の懐胎期間

体系的形態の変化よりも
素材の変化からテクノロジーの進化を期待する時
<構造とパターン>の革命が伴うとは限らない。

真の<構造とパターン>の革命は
数世紀間以上も影響を与えてきた。

プラトンからケプラーまで
そして、ケプラーからフラーまでの
概念形成の隔たりのように
幾何学的概念革命には、
科学技術の研究開発に先行する原理の発見までの懐胎期間以上の
懐胎期間が存在する。

それは素材の変化からは求められない
未知(unknown)の数学的自然からなのだ。

非圧縮力的宇宙観

人々は無意識に
ほとんどの構造にまだ<大黒柱>を求めている。

大黒柱ほど圧縮力の社会を象徴する構造言語はないだろう。

張力的世界とは何か。

動くモノは動くモノに作用する、つねに互いに離れていても。
たとえば、太陽系に浮かぶ惑星地球。

この大気圏内の非圧縮力的宇宙観は
まだ圧倒的に希薄である。

有用性(utility)

テンセグリティが実用性に対して望ましい構造でないとするなら
別のテンセグリティを発明するか
さもなくば
テンセグリティに代わる何か別の構造を発見しなければならないだろうと
考えたのは1972以後であるが
テンセグリティ以上の構造は発見されなかった。

そして、その12年後、大気圏外からきた隕石からも
バックミンスター・フラーレンが発見された。

その自然の構造は、不可視の段階において
テンセグリティの最大の有用性(utility)を現実化している。

例えば、超伝導性、半導体性、磁性において。

数学的自然

構造とパターンの発見者であることを自認する科学者たちが
構造の革命や認識論の学派である以上に
バックミンスター・フラーによって実証された
メタフィジックスとフィジックスとの断絶と統合を
いまも乗り越えることができなかった事実と向き合う時に
シナジェティクスを学ぶこと以外の可能性はあるのだろうか。

ナノチューブやフラーレンの構造とパターンの
数学的な分類方法からも
こうした可能性と限界は明らかである。

数学的自然には
自然から構造を学ぶよりも
自然を構造化する方法が存在する。