シナジェティクスとは何か。
物質と自己を変容させることができる。
そして、宇宙と自己との相互関係が変容するのである。
シナジェティクスとは何か。
物質と自己を変容させることができる。
そして、宇宙と自己との相互関係が変容するのである。
領域的、部分的な知識ではなく普遍的包括的な知を求めるメタフィジックスは
形而上学と訳されたまま抽象的な思弁哲学に堕落させられ、
<直観>と共に、現在すべての義務教育課程で完全に除外された。
はじめから非同時的で無尽蔵にデザインされている
子どもの直観に基づいた動機と自発性は、社会にとって潜在的な脅威だからである。
この脅威は他国の軍事力以上である。
<直観>と<直感>の区別に、哲学的な素養は無関係である。
インスピレーション(精神における電磁誘導装置)は直観に含まれるから。
シナジェティクスは、
このインスピレーションに従って生きると
自己のテクノロジーがどのように変化するかに関わっている。
そして、直観的な基礎による見解こそ自己のテクノロジーを担っている。
原理の発見方法はこれからも存在しないにしても
蓄積から遠ざかる技法は存在する。
モデリングによる思考というべき
これまでの思考方法の破棄なしには、
シナジェティクス原理に遭遇することはできないだろう。
シナジェティクス原理に遭遇しても
それが原理として見立てられるかどうかは、
破棄して残るものが決定する。
人間はあらゆるものを発明することができる。
非対称性ではなく、無対称性に
魂を奪われやすい人間には
考える能力を与えられたのだ。
軽薄で嫉妬深く、気まぐれで偏見に満ちた不公平な世界や
他人の価値基準を変える方法を除いて。
シナジェティクスが
デザインサイエンスを通して実践した解決策は、
地球外から観た主体を発見することだった。
つまり、デザインサイエンスのための解決策は
シナジェティクス原理の発見以外にはなかったのである。
発明や人為的なエンジニアリングによるアーティファクトの革命とは、
社会的な現状を支える政治経済の強い流れに逆らう行為ではなく、
社会的な現状とは別に実在する<現実の泉>に到達する行為である。
<革命revolution>=re(逆らって)+volvere(回転する)
ならば、
発明直後から革命的と称される発明が
<現実の泉>から湧き出たメタフィジックスとは限らないのだ。
気づいたことよりも
気づかなかったことの方がつねに多いことを
知るにはどうすればいいのか。
気づくために観察する(observe)とは、
語源的に<仕えるために注意深く目の前に保つ(serve)>という
ほぼ従属的な行為ならば、
観察者は、
観察から始める行為から
新たなビジョンはほとんど生まれないという
自らの経験に気づかない。
気づかなかったことを気づくのは
関係の包括的構造化による
全面的変化であり、
つまり非観察的な眼差しから形成されるのである。
自己を自己の外部から観る(=内部を裏返して外部化する操作)
ある種のトポロジーが
その眼差しを支えているのである。
テクノロジーやイデオロギーの<進化(evolution)>という
不可逆的な形態論の誤謬から、そして<進化>という19世紀の言語の迷妄から
解放されなければならない。
e・volveというe-(外へ)+ -volve(回転する)と同時に
involve、つまりin-(中へ)+ -volve(回転する)行為によって
つまり、回転するトルネードのようにして
<漸進的変化>をとげるメタフィジックスの段階なのだ。
もはや進化モデルではなく、<漸進的変化>の加速度なのである。
宇宙の原理の発見に基づく<知>の増大こそが
<漸進的変化>の根源である。
シナジェティクスに要請されたのは、
ただ真理のみが支配する自由な<思考の幾何学>である。
真理を見るための方法が、
そのまま<モデル>を物質化するためのビジョンと化す時でさえ、
その方法の探査では
これまでのモデル言語の破壊にほとんど費やされているだろう。
物質化はつねに遅延する。
発見されたシナジェティクスモデルを
モデル言語によって解釈する上での
複数性の問題は
モデル言語の定義によって
シナジェティクスモデルの構造から生成される。
つまり、構造を決定する場合の基点となる
絶対的なモデル言語は存在しないのだ。
その視点がどれほどの
シナジェティクスモデルを発見してきたのだろうか。
視点とは、複数性の問題そのものである。