とるべき行動と物質的なデザインへの理解の発端となるのは、
概念を実践に還元し、なすべきことについて
ただ語ることをやめる場合に限られる。
「何をすべきか」を自分以外に聞かないことは
自己のテクノロジーである。
とるべき行動と物質的なデザインへの理解の発端となるのは、
概念を実践に還元し、なすべきことについて
ただ語ることをやめる場合に限られる。
「何をすべきか」を自分以外に聞かないことは
自己のテクノロジーである。
<展開evolve>に対比する概念(正確には反対称的な概念)は
<巻き込むinvolve>であり、「回転して内部に巻いていく」ことだ。
これは前者と相補的にかつ動的な均衡を形成する。
この相補性は、決して鏡像的な関係ではない。
この概念モデルは、台風にもハリケーンにもキノコ雲でも再現されるが
沖縄は、アメリカの軍事的展開を回転して内部に巻いていく
ナーガの棲む場所だ。
観察から得られる情報以外に、
われわれの思考の境界を確定するのは直観である。
静止的な幾何学は、測量技術を起源とする。
移動しながら生存するテクノロジーは
シナジェティクスの起源である。
人間は移動する時、
もっとも包括的に思考する。
建築の単位体積あたりの重量・エネルギーコストは、
植物の有機体システムを構成する細胞単位あたりのそれらと比較されたことがない。
エンジンの燃費は、決して植物の光エネルギー変換効率と比較されない。
<構造>から反構造や非構造を排除することではなく、
国家とそれに結び付けられた<構造>という概念から
自らを解放するために、
数世紀の間、押し付けられてきた<構造>、または<固体>、
あるいは<角度的固定>という概念を拒否することによって、
主体性の新たな形式を見出していくには
何を実践すればよいのか。
シナジェティクスモデルは、
しばしば未知の概念を内包している。
科学で偽装したエコロジーは先験的主観性が決定的に不足している。
エコロジーの起源は、
ダーウィン一派の適者生存説を推進していた動物分類学の権威ヘッケルにより、
生物学の一専門分野として創設されたにすぎない。
直観はつねに先験的主観性を誘導する。
互いに離れていても。
シナジェティクスモデルによって
必然的に要請されるのは、
真理のみが支配する自由な思考の領域(=ドメイン)
の初期設定である。
その領域でのみ真理を検証する観察方法が、
そのまま事物を支配する眼差しに変換される過程にこそ、
機能が排除された建築構造などの形態模型(form)の意味作用とは
雲泥の差が形成されるのである。
例えば、シナジェティクスモデルには
浮遊する最小限の構造モデル(=カーボン製パイプからなる直径60㎝の共鳴型テンセグリティ)
さえ制作可能である。
シナジェティクスによって
直観を生み出せるのではないかという期待は、
しばしば<自己の外部>に出るために
どこに向かうのかを何も語らないまま
現実から離脱する手段として、
神聖化された既存の幾何学にすり替えるだけで
直観には至らないのだ。
シナジェティクスは、自然と神聖幾何学を模倣しない。
モデル言語を発見する私は、
昨日のモデリングとの相違を感じる私と同じ主観に始まる。