70年代のバックミンスター・フラーの
ジオデシックドームやテンセグリティの分析・解釈から生まれる
追従者のカウンターカルチャーは、依然
優柔不断な悪しき三角形主義の中に取り込まれたままでいる。
バックミンスター・フラーの分析・解釈から生まれるよりも
自然のジオデシック構造やテンセグリティ構造は
無数にあることを
発見し認識するがシナジェティクスである。
70年代のバックミンスター・フラーの
ジオデシックドームやテンセグリティの分析・解釈から生まれる
追従者のカウンターカルチャーは、依然
優柔不断な悪しき三角形主義の中に取り込まれたままでいる。
バックミンスター・フラーの分析・解釈から生まれるよりも
自然のジオデシック構造やテンセグリティ構造は
無数にあることを
発見し認識するがシナジェティクスである。
主体的個性から自然の構造とパターンを
本質的に探査する限界を
誰も教育しようとはしない。
主体的個性ほど
政治的、経済的、教育的な要因によって
決定されやすいものはない。
シナジェティクス的思考とは、
非デザインサイエンスにできるだけ接近し、
それがモデル言語で結実する磁場に留まることによって、
はじめてデザインサイエンスを作動させる一つの操作主義のことだ。
原理の存在と共に絶えず想起される思考方法なのだ。
この方法を習得したプライムデザイナーは
私の知る限り、3人しかいない。
火星でのサバイバルには
ジャガイモの栽培ではなく
稲作をすべきだ。
自分の排泄物から
完全水は再生可能だ。
これは生物工学の問題だけど
シナジェティクスには
バイオドームのための生物工学が含まれる。
一粒万倍は他の惑星でも可能だ。
プラトンからバックミンスター・フラーに至る幾何学による
原子論または素粒子論という根源性という方向から
シナジェティクスは生まれた。
しかし、プラトンの多面体から原子核構造に至るまで
経験的な方向での連続的な技術の歴史からは
主体の理論が背後に残されてしまう。
バックミンスター・フラーにおいては
デザインサイエンスで主体の理論化と実践化がなされている。
物質化という行為とプロセスなくして
エフェメラリゼーション(非物質化)という客観性は生まれないのだ。
数学というメタフィジックスも含めて。
シナジェティクスの探究とは
自己に対して自己以外のすべてでありつつ
再び自己に戻る
デフォルト的破壊者への道
あるいは
自己の真理を失いながらも自然からの啓示にうたれて
真理を再発見するデフォルト的存在への道
それらは互いに相補的である。
—–同時的に、非同時的に
宇宙は
真理を生産することでしか
テクノロジーを行使することができない。
シナジェティクスは
真理の生産性の方法に富んでいる。
デザインサイエンスは
真理の生産に従うための
クリティカル・パスを生み出した。
構造の深層において横断し、固体以前にあって、
圧縮力と張力の相互作用で構造を支えているのが
システムの統合力であるのを明かされたにも関わらず
構造に意味を与え続けている
表層的な作用こそが
無意識を無化させているのである。
テンセグリティよりも前に
構造は存在していなかった。
無意識の構造ではなく、無意識からの構造が。
シナジェティクスの誕生によって
リアリティが生まれる場所は移動したのだ。
それは書物や教室から
映像や形態の側、まして結晶質に移動したのではない。
言語の内的で交差した
アモルファスな
均質で等方性のシナジェティクスモデルへ
リアリティは誘導され続けている。
シナジェティクスの探究において
評価されないと不満を抱いたり
憤慨するタイプには
科学や数学の知識の欠如ではなく
メタフィジックスの欠如がある。
バックミンスター・フラーの時代に生まれた
シナジェティクスモデルを模倣しただけの
シナジェティクスの批評家たちが
みんな死んでしまった。
メタフィジックスの欠如から
惑星地球での目的意識は理解できなかった。
しかし、それらは、シナジェティクスの理解まで
さらに150年間続く理由ではない。