デザインサイエンス」カテゴリーアーカイブ

同時的真実

「知られざる真実」は確かに存在する。
——非同時的に。
では、いまいったい今何が起こっているんだろうか?
同時的に真実は分からないということだけが分かっている。
少なくとも20世紀にバックミンスター・フラーが
『クリティカル・パス』(1998 白揚社)を著す以前にはなかった
認識が加速度的に形成されている。
理解にも真実にも同時性は存在しない認識こそ
同時性に見せかける過剰な<記号のテクノロジー>を見破ることができる。

クリティカル・パス法と最短時間

問題解決にはコストや時間がかかる。
その問題解決方法を思考するための時間もコストである。
多くの場合は、より複雑な解決方法によって、解決する過程がより長期化する。
そこで解決を中止するほうが経済的だと考える。
もっとも矛盾のない単純で効果的な方法にたどりつくのは稀である。
多くの人々は、その時間もエネルギーも想像するだけで終わる。
そこに到達するための
時間もコストもエネルギーも予め用意しなければならないと
最初に考えられたのは、国家か大企業か軍隊である。
単純で効果的なクリティカル・パス法には
時間とコストとエネルギーが含まれている。
固有安全性を含んだ最短時間の解決方法には
最長な経路が内包されている。
実践的なクリティカル・パス方法の最大の障害は
人々の常識と非常識を区別する社会的道徳である。
国家か大企業か軍隊には、その社会的道徳はない。
彼らがそれらを作り出し利用してきたのである。
たとえば、TPPはクリティカル・パスの産物である以上
今後最小のコストとエネルギー、そして最短時間で実行される。

クリティカルパス

長寿社会は死への恐怖から逃走する
テクノロジーを歓迎する。
例えば、マクロビオティックを目的的に
愛好する若者たちの急増。
自己を実現するテクノロジーは
意図的に減速させられている。
例えば、クリティカルパス方法。

浮遊するテンセグリティ

テンセグリティモデルから
構造に関するまったく新しい概念を発見できる。
しかし、テンセグリティ原理を認識するためには、
すべての古い構造の概念を捨て去ることが必要になる。
基礎に依存して自重をすべて大地に
流し続けていることを疑わない
古い構造の固有な概念を。
浮力や揚力を利用する船舶や航空機が
移動するために基礎部分をまったく持たないように
大気圏を浮遊可能なテンセグリティ構造は
人々を移動させるために存在している。
テンセグリティを浮遊させないで地上に係留する時も
より軽量で自律的でなければ安全ではないだろう。
テンセグリティは
バイオスフィア自体も
太陽系を軸回転しながら浮遊し
断層ネットワークがつねに振動していることを
前提にしたテクノロジーとして発展する。

建築家

太陽や惑星の質量は知っているが
自らが設計した空間構造の質量に対して無関心である。
静止した空間構造物の全自重を
大地に流す仕事から軽量化は生まれない。
大地が重力の下水道のように使われているかぎり
リダンダンシーは最大限に増大する。

廃れた住居空間

外洋を移動する船舶は
波の上の長時間の住居空間である。
大陸間を移動する航空機は
翼の上の短時間の住居空間である。
都市間を移動する自動車は
ホイール(車輪)の上の
さらに短時間の住居空間である。
空間は移動速度によって
より高性能な居住機械に変換されてきたが
30年ローンで購入する21世紀の高価な空間は
まだ大地の上で静止したままだ。
しかも、設計図から通常の1回しか製造されない建築空間は
もっとも危険なプロトタイプの静止した空間である。
すべての設計者は自分が使用する
ノート型パソコンの重量は知っているが
設計者がその全重量を知らない居住機械は
建築空間以外に存在しない。

続)世間話

例えば、バックミンスター・フラーを
賞賛してきたほとんどの建築家は
彼ら自身の興味を賞賛することであって
それは新たなシナジェティクスや
デザインサイエンスの包括的な理解(comprehension)ではない。
単なる<不十分な間にじっと立つ行為=understand>である。
まして、21世紀の実践的なクリティカル・パスとは無縁だ。
傍らに立っている人々からは
賞賛以外何も生まれない。

予測について

デザインサイエンスは予測的である。
それは確率論に基づいた未来学(Futurology)とも異なる。
計画的陳腐化のための最新のテクノロジーが
効果的とは限らない。
デザインサイエンスは
効果的なテクノロジーを<先行させて加速する(anticipatory)>ことである。
現在が過去の蓄積であるかぎり
デザインサイエンスは現在に適用可能である。
つまり、予測とは
安全な賭ではなく、明日の<現実>でもなく
<現実>を昨日の思考から切り離す峻烈な行為である。