満月は、闇を照らすが
焚火は、闇を焦がす。
ついに無知の夜は、逃げ惑うだろう。
朝霧が太陽を覆うまで。
満月は、闇を照らすが
焚火は、闇を焦がす。
ついに無知の夜は、逃げ惑うだろう。
朝霧が太陽を覆うまで。
風にはパターンがあるが、
風の源には、風の吹かない場所がある。
無知によって秩序を発見できない場合、
秩序に先行するどんな初源的な風も存在しないにちがいない。
秋に死んだ植物が、田んぼや畑で朽ちていく時に
腐敗しているのか、発酵しているのか、
つまり、微生物の存在度で自然が再生されるかが
収穫という概念を生む。
自然農は微生物の存在度のテクノロジーである。
無農薬、無肥料、不耕起の自然農法のための
発見された微生物の存在度は、複製可能なシナジーの源泉である。
未知を超えたシナジーは、自然をも超えている。
栗虫は、栗になる前に産卵するので、
落下して収穫する栗のほとんどには、先住者がいる。
渓流釣りでは、その先住者は優れたエサになるが
栗虫のような幼虫の段階は、だいたいゼリー状のミルク味がするはずであるが、
茹でた後の栗を食べて、吐き出すほど苦い味の場合は、
栗虫ではなく糞の味である。
鮎や河川に残留した巨大アマゴ、ヤマメなどのやや大型の川魚だけが
水中に落下して溺死を免れるために栗内部から脱出して浮上する間の
純粋な大型ゼリーを深い淵から巧みに他の小さな仲間よりも先に捕獲できる。
彼らにとっては、季節限定の生きたデザートである。
☆鼻曲がりアマゴの魚相は、やはりサツキマスである。
渓流釣りには、生きた昆虫を模した毛針よりも、季節限定の栗虫の方が有効だ。
そして、私の経験では、栗虫よりも硬くボイルした鶏の卵の白みや卵黄を栗虫以上に好むようだ。
しかも、安価なのでどこでもゆで卵は用意できる。
引用
http://hiroamago30.cocolog-nifty.com/photos/2012/index.html
石畳に打ち水をするとしばらくすると
3度程度周囲の気温が下がるが、石の表面温度は再び50度以上になる。
庭の雑草を抜かないで10㎝程度に刈っておけば、
草の葉の温度は、猛暑日でさえ30度以上にはならない。
日本の庭先は、植物の光合成による葉の水冷システムに任せるのが自然だ。
雑草は大地を被覆する優れた保湿システムでもある。
雑草の多様性はイネ科の多年草の芝生よりも美しい。
光が少ない雨天が続き、高温多湿が定常化すると、
グリーンハウス内の植物も加速度的に成長しはじめる。
彼らは外部と繋がっている。
一方、車やカメラなどの精密機械はそれぞれ孤立しながら
著しく劣化しはじめる。
外部化した道具類の森での生存率は極めて低い。
外部化した道具類にもシェルターが必要だ。
森の中でしばらく生活すると、例えばスピーカーからの音楽や過剰な光、
そしてある種の食物を必要としなくなる。
森でのサバイバルの経験を統合していくと知覚が変容しはじめ、
その知覚がより鋭敏に機能するような環境を短期間に生成すると考えられる。
環境は自己以外に属するという知覚によって
夜明けのドローイングが始まる。
驚くことに、人類が環境と宇宙と自己との相互関係を捉え始めて
まだ半世紀しか経過していない。構造とパターンにおいても。
台風が去った夜は
森からシマフクロウがやって来る。
そして朝はカッコウが鳴く。
森から移動する方向と距離が分かる。
この太陽系を周回するためのナビゲーション器官は
都市の住居デザインから排除されている。
早朝に森を散策した。
今年は気温が低いのでまだオオルリが梢の方で鳴いていた。
渓流の岩場で遭遇した野鳥観察のカメラマンに
オオルリの生態について質問した時に気づいたのだが
15m先の鳥類図鑑のようなオオルリの羽根の美しい細部を
再現できる超望遠単焦点レンズは800mmであった。
渓流の岩場の穴にコケで巣作りする時の敏捷な動きをの記録には、
マグネシウム合金ボディで小型・軽量化された望遠レンズが不可欠なようだ。
図鑑の挿絵は、おそらく超望遠単焦点レンズによる映像を参考にして描かれたにちがいない。
地下水を散水して雑草を刈っているとアゲハチョウがやって来る。
湧水の香りは、故郷(オアシス)の記憶か。
黒い輪郭で縁取られたウスバシロチョウは梅雨明けにやって来るだろう。
森に接近しなくとも庭で散水するだけで、マクロレンズで撮影できる。
羽根の曲線のエッジに囲まれた半透明の面は、強い太陽を反射しないから。