観察から再現しないシナジェティクスモデルは
自己中心的な観察者には好都合なのである。
彼らはフィジカルな形態(form)に追われて
モデル言語を理解するメタフィジックスと
無関係にできる日々を過ごしている。
こうした形態のコレクションから始める探究は
逃避の擬態にすぎない。
この擬態の目的は
自己への観察をつねに誤認させることである。
思考力
テレビや新聞はいい加減どころか
人々を騙しているから
テレビも新聞も見ない人々は
真実を知るためにインターネットを見る。
この思考パターンはまだ疑われていなから
新たな嘘を信じ込ませる人々よりも
信じ込む人々が多い場合でさえ
新たな<現実>を形成できるのである。
凡庸な順応のパターンの学習に追われ
凡庸な思考力が生まれる。
真実を知るために他者の思考に依存する習慣は
まだ疑われていない。
つまり、凡庸な思考力は
偽善と冷酷さを生むために不可欠なのだ。
共鳴型テンセグリティ
共鳴型テンセグリティは絶えず動いている。
テンセグリティは、
自重や外力を受けると複雑に変化する不均衡を素早く動的に変換し
あらゆる瞬間の新鮮な調和を形成する過程を
連続的に視覚化していくモデルである。
破壊から逃れるもっとも効果的な方法は
パッシブな外力分散である。
それゆえに、このテンセグリティモデルに最初に出会ったとき、
条件付けられ固定化された思考形態と
決して静止することがない無生物の自律的メカニズムとの間に
絶え間ない混乱がおこるのである。
しかし、この混乱が既成の思考パターンから
抜け出す葛藤に変化するとは限らない。
テンセグリティの一つの張力材が破断すると
全体が連動して瞬時に破断する思考形態を
疑うことができないまま
この絶えず動く無生物に対する怖れに支配されてしまうのである。
絶えず動いている構造が
生存空間には不適切だと判断させる
不動産という法律概念が
数千年間におよぶ概念の牢獄を形成している。
テンセグリティを美的範疇に押しとどめる努力も
その現れにちがいない。
メタフィジックス
誰もシナジェティクスモデルを発明できない。
それは発見されてきた。
より自律的な思考や感情から誘導される
自然に潜む絶えざる開示なのである。
シナジェティクスモデルを発見する方法など存在しないが
その開示されたメタフィジックスは
人々を夢中にさせる独創性として誤解されている。
特許的独占のための独裁
STAP細胞は存在するからこそ
理研はネイチャーの論文提出よりも
特許出願を先行させてきた。
研究者の論文を取り下げさせても
特許出願を取り下げていないのは
理研がすべてのSTAP細胞特許の特許出願人であるからである。
STAP細胞に関しては製造方法の発明よりも
その概念の発見の方が科学史的に重要視されるにちがいない。
STAP細胞の製造方法を特許的に独占して
関わった複数の発明者ではなく
その第1発見者を理研から解雇するために
論文を意図的に不正に提出させ
論文の掲載後に匿名でインターネット経由でその不正を暴露し
その発見者を研究所内の法律で陥れるすべての関係者の時間エネルギーは
税金で賄われてきたのである。
少なくとも、理研は概念の発見者の名誉と事実を
自動消滅させる企ては成功しているように見える。
それほどの傲慢さと犯罪行為を維持できる社会構造を
批判しない人々は、内部であろうと外部であろうと
もはや科学者ではないだろう。
小さな独裁者の集団性は
メディアのヒステリックな排他性と共鳴しやすいのである。
文節化(articulation)と専門分化(specialization)
社会構造はイデオロギーに関わらず
まだ互いに分離され専門分化したままだ。
専門分化によって
理系や文系といった鏡像性を否定できないように
政治構造は左派と右派に分離される。
より専門化されればされるほど
より重要な情報を所有する。
支配という意図があるかぎり
思考は特殊化のために分割され続ける。
そして、専門分化によって
分化すればするほど相互の相補性は失われる。
テンセグリティ構造においては
分離された圧縮力と張力は
互いに非鏡像的で相補的な関係に置き換わる。
純粋な構造には
優劣が存在しないばかりか
より重要な部分さえ存在しない。
より重要な部分とは
すべての専門分化過程に於ける
幻影化された目的なのである。
既製品
可能なかぎり既製品を使うと
自分でコントロールできないことを既製品に代用させ
自分でコントロールできることを
増やせるようになる。
バイオスフィアで入手できるすべての元素は
初期の既製品である。
人間が核分裂をさせない限り、それらの既製品は増えも減りもしない。
それ以外の既製品は
自然が許容したアブストラクトである。
その機能は重さもなくつねに増加するだけである。
すべての産業化はこの神秘的な抽象性に支えられている。
実践
デザインサイエンスを実践と切り離した
シナジェティクスモデルの限りない再現は
他人の思考方法を投影した3Dオブジェに過ぎない。
半世紀間を超えたバックミンスター・フラーによる
シナジェティクスの膨大な試行錯誤から選んだ
理解可能な複製から何も学ぶことはできない。
表面材のないジオデシック構造や
ゴム紐や釣り糸のテンセグリティモデルなどは
まったく無意味なのだ。
シナジェティクスを学ぶことは
行為とメタフィジックスを分離させることではない。
自然は、主観的に、美的に実行しない。
シナジェティクスとデザインサイエンスは
相補的な行為なのである。
———原子核における電子と陽子のように
続)テンセグリティと操作主義
1590年の顕微鏡の発明後
1674年にオランダのレーウェンフックが微生物を発見した。
彼はセル(=cell 細胞)を発見していたが
細胞が生命の基本単位であることを
証明したのは彼ではなかった。
シナジェティクスが
球状テンセグリティ構造を発見するよりも前に
科学者たちは細胞がテンセグリティ構造である事実を
細胞の観察からは気づけなかった。
観察から発見される新たな概念は
ほとんど存在しないのである。
操作主義の有効性を問うならば
細胞膜が細胞の構造だと思われた歴史だけで十分である。
テンセグリティと操作主義
圧縮材を交差させて交差点を固定する構造を受け入れる時
圧縮力に依存した要求そのものが
構造の不安定さと構造の破壊を生むことに無関心である。
純粋な構造は、圧縮力を張力と分離する。
分離して統合する張力の機能を形成するために。
この場合の分離とは
文節化(articulate)なのである。
文節化という統合の意図がなければ
分離もできないのである。
つまり、圧縮材を不連続にすることによって
張力機能を形成する操作主義なくして
テンセグリティ構造は発見できなかったのである。
