鉱脈

熟練した科学者でさえ、
アイデアの金鉱脈から去ってしまうまで、
そこにいたことには気づかないものだ。
まして、金鉱脈の中で息絶えたならば。
デザインサイエンスは
金鉱脈から脱出した後の
行動学である。

モバイル講義

同じ講義はほとんどできない。
誰に話すかによって話が変わるのは
話す相手から話を見つけるからである。
同じテーマでも相手が変われば
理解の仕方も変わる。
さらに同じテーマでも話が変われば、
しばしば、講義中に新しい理解を発見できる。
これらはすべて非同時的である。
講義にノートを利用する教師は
同じテーマの同じ話が同時に理解できると考えている
退屈なファシストだ。
ほとんどの学校が同じ場所での同時性の収容所になっているのは
イギリスの産業革命時の工場労働者の
生活様式のままだからではないだろうか。
(私はワークショップ以外は、スカイプでいつも講義をするが
私と学生がそれぞれどこにいるかはほとんど重要ではない)

理解していない話を理解できないのは
新しい話は存在しないからである。
古い話に分解するだけである。
 
新しい経験を理解させることは
ほとんど不可能に近い。
無数の類推と類似から
ほとんどの話は伝達されている。

最後の夏

午前中、母さんはベットに静かに横たわっていた。
そして、長い話をした。
瞳だけで返事をするのがやっとだったが
その瞳は澄んでいた。
まもなく、静かに眠りについた。
きっと安心したのだろう。
母さんが目が覚める頃、
僕は年老いた父さんと
畑のそばで
今年初めてのスイカを食べているだろう。
明日は満月だ。
母さんと過ごす最後の夏は
こんなにも一日が長い。

標準

人間が昨日より今日、
そして日々変わり続けるには
才能とエネルギーが必要だ。
いっさいの標準を破壊するために。
自然はもっとも少ないエネルギーで
標準(=ノーマル)を変える達人だ。

奴隷

あと何日で完成するか。
やってみなければ分からないと考えている人は
ほとんど誰かの奴隷である。
すくなくとも知的産業社会では
もっとも重要な富をすでに奪われている。

非対称性

時間は主観的により加速している。
いくら長生きしても、
最初の20年が人生のもっとも長い経験だとしたら
後半の20年は人生のもっとも短い時間だ。
なぜだろうか。
数百万年間も人類は
最初の長い経験の過程でほとんど死んでいる。
そして、
前世紀からの著しいこの非対称性から逃れるために
娯楽と戦争を発明したのだろうか。

モジュール

既存のデフォルトと戦うことによって、
モノゴトは変えられないだろう。
日々、出荷され続ける現実を変えるために、
既存の概念を陳腐化するほどの
モデルの発見に挑戦する意味を感じるかどうかだ。
その過程に従事するための個人的環境こそが
最初の小さな現実(=モジュール)になるだろう。
部分には全体は宿らないにしても
実在するモジュールは相補的なモジュールを必要とする。
それ以外の方法で
人為的なデフォルトの出荷は排除できないだろう。

問題と方法

ある問題に遭遇した場合に
解決するべき
より困難な、より包括的な、より鋭敏な
問題として捉える方法は、
最初の問題をも解決する方法に変換できる。
同時に、関連した諸問題を生成する方法が
もっとも問題を効果的に減らす方法かもしれない。