月別アーカイブ: 2014年6月

物質の遅延

思考から望ましくない余波が生成され
行為から予期しない副産物が生成され
問題解決の方法はついにやってくる。
——風が吹く前に。
思考の副作用(side effect)は
主観的であり
行為の副作用(プリセッション)は
客観的である。
物質化は思考よりも遅れてやってくる。
デザインサイエンスは
遅延反応物質の過程にある。

副産物

梅雨の季節は
スタジオでずっと仕事をすることになる。
問題は減らなかった。
梅雨の雑草の成長速度が加速するように。
夕暮れが終わる頃から
遠くまで拡がる単調な空を見ながら
酒を酌む。
夏が来るまでは
問題は減るよりも増えだろう。
問題がすべて思考の副産物だとしたら。

続)自己愛

発見される相互の関係を
積算ではなく、つねに統合する行為によって
自己愛が優先するシステムへの依存度を知ることができる。
自己愛が優先する社会は絶えず偶像を作り出す。
自分を外から見る経験よりも
内部から見る世界だけを存続させるために。

自己愛

自分を信じて最善を尽くす。
そして、奇蹟を祈る。
これは自己のテクノロジーではない。
自分の力を外から見ない限り
自己愛が招く
終止符のない混乱と矛盾のゲームだ。

消費税

人間は日々20キロの空気を呼吸する。
その中から2.6キロの酸素を取り入れている。
一日の水の消費には課税されてきた。
国家はやがて酸素の消費行為にも課税するだろう。
消費税はつねに軍費調達のために始められている。

願望

何かになる願望から理解するかぎり
<存在>は知ることからは到達できない。
知識が願望のために記号化されるよりも
願望自体がすでに記号化されるからだ。

気休め

<クリティカル・パス>の過程を学ぶ機会が
現在のカリキュラムにほとんど存在していないのは
学習過程のすべての試験が
幻想上の基礎を抱かせるための
短命な知識だけではなく
概念の牢獄に繋ぎ止める手段になっているからだ。
良い成績は虚しい競争を勝ち抜いた
気休めの報酬として与えられる。
知識の破壊なくして理解は生じないにしても
その勝者を気取った学生たちに
シナジェティクスやデザインサイエンスを教えるほど
虚しい破壊行為はない。

基礎のない自由

いかなる種類の静的な安定を
ことごとく排除するシステムに到達している
テンセグリティは自由である。
そのシステムは自然の形態の観察からは発見されなかった。
そして、数学的な探査からも想像できなかった。
テンセグリティは
支配によって獲得する外部の<自由>から遊離して
自律的な<自由(アナーキー)>を具現化している。
けっして孤立しないテンセグリティは
基礎という大地から完全に自律するために
つねに振動によってより旋律的になる。
基礎が固体幻想に支えられていればいるほど
基礎のない自由は拡張する。

シナジェティクス

間違って理解しない限り
未だ理解していない可能性を配慮しない、
という自己との対話方法によって
モデル言語は漸次的に形成される。
シナジェティクスをより深くより単純に学ぶと
結果的にシナジェティクスモデルが
何度も作成されるだろう。
私はテンセグリティモデルを
すくなくとも100回以上は作成している。
バックミンスター・フラーが理解していない可能性を配慮しないまま。
その中のテンセグリティモデルには
1995年に制作した直径11mで
折り畳むことができるテンセグリティシェルターがある。
その後多くの研究者がこの構造システムのメカニズムを
複製したが、まだ誰も<生活器>にはしていない。

井戸端(well)

努力する人は未来を語り、怠ける人は過去を語る。
どちらも今を生きているわけではない。
井戸端で水くみや洗濯などをしながらではなく
日々の稼ぐ仕事の傍らで
ただ語っているだけである。
21世紀の井戸端は至る処に湧き出ているから
かなりの物知り(=a well of information)になっているが
その井戸はどこからでも覗き込まれている。

知性

自分の経験よりも他人の経験を利用する
特殊な知性で生きていけるが
他人のためにその知性はほとんど使われない。

共進化(Co-evolution)

裏庭は森へと続く最初の入口(=背戸)かもしれないが
地下30キロメートルの地殻にまで生存する
微生物圏のサブシステムの出口を構成している。
——–バイオマスの相対比からみれば。
微生物が作り出した膨大な油田と
21世紀にまで存続する石油資本との関係は
地下に長期に埋蔵されたバイオ系エネルギーによる
内燃機関を開発し続ける
一時的で特殊な共進化(Co-evolution)である。
ハイブリッドカーでさえまだ微生物圏のサブシステムである。

国家と個人

部分の集合が全体を形成するにしたがって
全体のために部分を犠牲にする全体が容認される場合
全体は推測可能である。
部分からは推測できない全体のために
機能しているシステムでは
部分の欠損が発生しても
全体のシステムに致命的な状態を形成しない。
それは、全体のために部分をより犠牲にしないことではない。
全体が部分よりも重要ではなくなるからではなく
より重要な部分が形成されない全体が形成できるからである。

親しさ

親しみのない存在は
不自然に感じるから
自然に精通すると
無遠慮な関係までも
エコロジーに含むようになる。
なれなれしさは
身勝手な愛撫でしかない。
自然を裏庭のように
親しい存在にしたいだけなのだ。

サイズの基準

Tシャツの季節がやってきた。
私のサイズは日本で買うとLLだが
アメリカではMになり
オランダではSになる。
Tシャツの標準はまだ局所的である。
Tシャツの標準は平均身長ではなく
ハンバーガーの大きさのように
胃袋の大きさに準拠している。

共鳴型テンセグリティ

共鳴型テンセグリティは絶えず動いている。
テンセグリティは、複雑に素早く変化する動的に均衡を振動に変換し
あらゆる瞬間に新鮮な調和を形成する過程を視覚化するモデルである。
このテンセグリティモデルに最初に出会ったとき、
そこには条件付けられ固定化された思考形態と、
決して静止することがない無生物のメカニズムとの間に
絶え間ない混乱がおこる。
しかし、この混乱が既成の思考パターンから
抜け出す葛藤に変化するとは限らない。
テンセグリティの一つの張力材が破断すると
全体が連動して破断する思考形態を
疑うことができないまま
絶えず動く無生物に対する怖れが拭い去れないのである。
絶えず動く構造システムが
生存空間には不適切だと判断するには
不動産という概念の牢獄が
数千年間も持続しなければならない。

浮力について

建物を支える杭が地中の固い地盤に達していないために
建物が傾く事故が報道されている。
建築技術は固い岩盤がなければ、
建物は船が傾くように傾くことを前提にした技術であるが
建築技術はあきらかに建造物全体の重量の限界に基づいていない。
物体が受ける浮力は、その物体と同じ体積の流体に作用する重力に等しい。
言い換えると、船の浮力は船体が水を押しのけた
体積分の水の全質量に等しいならば
高層ビルの浮力はその基礎部が押しのけた
大地の全質量に等しいのである。
すべての建物は浮力に応じて
沈むか、浮遊しているからこそ
固い岩盤に依存した状態でのみ不動なのである。
固い岩盤に一時的に係留された建造物は
法律上でのみ動かぬ不動産なのである。
科学的に岩盤(plate)は岩石圏(lithosphere)であり
地球表面で弾性体として機能している。
すべての固い岩盤(plate)は、大陸とともに移動している。
古い概念に固執するほど危険な行為はない。

虚報大国

「吉田昌郎元所長の調書については、
本人が上申書で非開示を求めていることから、
これまで通り開示しない」朝日新聞
未来よりも過去の事実を変える人々が
議会制民主主義とメディアを支配しているかぎり
こんな情報は当てにならない。
非独立国家の最初の原発は日本の税金で研究開発し
その後民間企業に譲渡されたのである。

カボチャ

カボチャはいまがもっとも栽培しやすい。
梅雨の中での種まきが一番発芽率が高い。
雑草の中に植えても成長が早く
ついに雑草を大きな葉の陰で覆うほどになり
地表の温度上昇を確実に防ぎ
菜園場の乾燥を防ぐことができる。
コンポストに廃棄したカボチャのこぼれ種から収穫されるカボチャは
夏には一番はやく綺麗な花を咲かせるだろう。
その花はとても短命だから、ミツバチの受粉はもう一つの楽しみである。
日よけ用のカボチャの栽培はゴーヤよりも簡単だ。
この季節ならスーパーのメキシコ産のカボチャの種からも
確実に生育できるのでカボチャの苗を買う必要はない。
カボチャのこうした強健な性質から
もっとも簡単に無農薬栽培ができる。
南瓜は中国名であるが、彼らが熱帯地方で栽培化された種とは限らない。
収穫後の保存中にもっとも糖分の高くなる伯爵カボチャの原種は
冷涼なアンデス山脈だから
ここのスタジオの傍らの気楽な栽培には適している。
今年が冷夏なら尚更だ。

形態(form)vs モデル(model)

観察から再現しないシナジェティクスモデルは
自己中心的な観察者には好都合なのである。
彼らはフィジカルな形態(form)に追われて
モデル言語を理解するメタフィジックスと
無関係にできる日々を過ごしている。
こうした形態のコレクションから始める探究は
逃避の擬態にすぎない。
この擬態の目的は
自己への観察をつねに誤認させることである。

思考力

テレビや新聞はいい加減どころか
人々を騙しているから
テレビも新聞も見ない人々は
真実を知るためにインターネットを見る。
この思考パターンはまだ疑われていなから
新たな嘘を信じ込ませる人々よりも
信じ込む人々が多い場合でさえ
新たな<現実>を形成できるのである。
凡庸な順応のパターンの学習に追われ
凡庸な思考力が生まれる。
真実を知るために他者の思考に依存する習慣は
まだ疑われていない。
つまり、凡庸な思考力は
偽善と冷酷さを生むために不可欠なのだ。

共鳴型テンセグリティ

共鳴型テンセグリティは絶えず動いている。
テンセグリティは、
自重や外力を受けると複雑に変化する不均衡を素早く動的に変換し
あらゆる瞬間の新鮮な調和を形成する過程を
連続的に視覚化していくモデルである。
破壊から逃れるもっとも効果的な方法は
パッシブな外力分散である。
それゆえに、このテンセグリティモデルに最初に出会ったとき、
条件付けられ固定化された思考形態と
決して静止することがない無生物の自律的メカニズムとの間に
絶え間ない混乱がおこるのである。
しかし、この混乱が既成の思考パターンから
抜け出す葛藤に変化するとは限らない。
テンセグリティの一つの張力材が破断すると
全体が連動して瞬時に破断する思考形態を
疑うことができないまま
この絶えず動く無生物に対する怖れに支配されてしまうのである。
絶えず動いている構造が
生存空間には不適切だと判断させる
不動産という法律概念が
数千年間におよぶ概念の牢獄を形成している。
テンセグリティを美的範疇に押しとどめる努力も
その現れにちがいない。

メタフィジックス

誰もシナジェティクスモデルを発明できない。
それは発見されてきた。
より自律的な思考や感情から誘導される
自然に潜む絶えざる開示なのである。
シナジェティクスモデルを発見する方法など存在しないが
その開示されたメタフィジックスは
人々を夢中にさせる独創性として誤解されている。

特許的独占のための独裁

STAP細胞は存在するからこそ
理研はネイチャーの論文提出よりも
特許出願を先行させてきた。
研究者の論文を取り下げさせても
特許出願を取り下げていないのは
理研がすべてのSTAP細胞特許の特許出願人であるからである。
STAP細胞に関しては製造方法の発明よりも
その概念の発見の方が科学史的に重要視されるにちがいない。
STAP細胞の製造方法を特許的に独占して
関わった複数の発明者ではなく
その第1発見者を理研から解雇するために
論文を意図的に不正に提出させ
論文の掲載後に匿名でインターネット経由でその不正を暴露し
その発見者を研究所内の法律で陥れるすべての関係者の時間エネルギーは
税金で賄われてきたのである。
少なくとも、理研は概念の発見者の名誉と事実を
自動消滅させる企ては成功しているように見える。
それほどの傲慢さと犯罪行為を維持できる社会構造を
批判しない人々は、内部であろうと外部であろうと
もはや科学者ではないだろう。
小さな独裁者の集団性は
メディアのヒステリックな排他性と共鳴しやすいのである。

文節化(articulation)と専門分化(specialization)

社会構造はイデオロギーに関わらず
まだ互いに分離され専門分化したままだ。
専門分化によって
理系や文系といった鏡像性を否定できないように
政治構造は左派と右派に分離される。
より専門化されればされるほど
より重要な情報を所有する。
支配という意図があるかぎり
思考は特殊化のために分割され続ける。
そして、専門分化によって
分化すればするほど相互の相補性は失われる。
テンセグリティ構造においては
分離された圧縮力と張力は
互いに非鏡像的で相補的な関係に置き換わる。
純粋な構造には
優劣が存在しないばかりか
より重要な部分さえ存在しない。
より重要な部分とは
すべての専門分化過程に於ける
幻影化された目的なのである。

既製品

可能なかぎり既製品を使うと
自分でコントロールできないことを既製品に代用させ
自分でコントロールできることを
増やせるようになる。
バイオスフィアで入手できるすべての元素は
初期の既製品である。
人間が核分裂をさせない限り、それらの既製品は増えも減りもしない。
それ以外の既製品は
自然が許容したアブストラクトである。
その機能は重さもなくつねに増加するだけである。
すべての産業化はこの神秘的な抽象性に支えられている。

実践

デザインサイエンスを実践と切り離した
シナジェティクスモデルの限りない再現は
他人の思考方法を投影した3Dオブジェに過ぎない。
半世紀間を超えたバックミンスター・フラーによる
シナジェティクスの膨大な試行錯誤から選んだ
理解可能な複製から何も学ぶことはできない。
表面材のないジオデシック構造や
ゴム紐や釣り糸のテンセグリティモデルなどは
まったく無意味なのだ。
シナジェティクスを学ぶことは
行為とメタフィジックスを分離させることではない。
自然は、主観的に、美的に実行しない。
シナジェティクスとデザインサイエンスは
相補的な行為なのである。
———原子核における電子と陽子のように

続)テンセグリティと操作主義

1590年の顕微鏡の発明後
1674年にオランダのレーウェンフックが微生物を発見した。
彼はセル(=cell 細胞)を発見していたが
細胞が生命の基本単位であることを
証明したのは彼ではなかった。
シナジェティクスが
球状テンセグリティ構造を発見するよりも前に
科学者たちは細胞がテンセグリティ構造である事実を
細胞の観察からは気づけなかった。
観察から発見される新たな概念は
ほとんど存在しないのである。
操作主義の有効性を問うならば
細胞膜が細胞の構造だと思われた歴史だけで十分である。

テンセグリティと操作主義

圧縮材を交差させて交差点を固定する構造を受け入れる時
圧縮力に依存した要求そのものが
構造の不安定さと構造の破壊を生むことに無関心である。
純粋な構造は、圧縮力を張力と分離する。
分離して統合する張力の機能を形成するために。
この場合の分離とは
文節化(articulate)なのである。
文節化という統合の意図がなければ
分離もできないのである。
つまり、圧縮材を不連続にすることによって
張力機能を形成する操作主義なくして
テンセグリティ構造は発見できなかったのである。