人間は、巨視的なコミュニケーションシステムを内在している。
自己承認と原理の普遍性との関係を
最初に哲学的に捉えたのは
ヘーゲルの<精神現象学>である。
科学的原理を教育しても
インターネットを生み出した
生得的な巨視的なコミュニケーションシステムを
採用する自己教育プログラムは未発達だ。
ーーーーシナジェティクスを除いて。
人間性とは、巨視的なコミュニケーションシステムの外部化である。
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自己承認システム
先行技術から改善したアイデアの段階や
偉大な発明を参照しながら
新しい技術を解釈しているかぎり
テクノロジーに内在する原理の生きた美しさを遠ざけてしまうのは
そのテクノロジーを自らが単独で考案したという
社会さえも容認してきた自惚れからだ。
自惚れは、自己承認の欠如から生成される。
自己承認の欠如こそ、
優れた発明からテクノロジーと
その起源を捉える概念の限界をもたらしている。
新しいアイデア
新しいアイデアは無数に存在していた。
これからも加速度的に存在するだろう。
しかし、社会が新しいアイデアを採用する時は
それ以外のアイデアが機能しなくなった場合だけである。
社会的承認を目的としたアイデアよりも
自己承認が先行した無数の孤立したアイデアがなければ
社会が存続できない<システム>を採用しているのである。
この<システム>が
人間が宇宙から学んだ方法とは
決定的に異なっていることを
個人が認識し始めていることだけで
社会システムが前例のない危機に陥っているのである。
CPU
過労死するほど仕事量を増やせるのは
ロボットよりも人間の賃金が安いからだ。
しかし、そのロボットを
より安く働かせているのは
より少ない電気エネルギーで働く
休息を知らない人工物CPUだ。
腐敗エコロジー
エコロジーは
科学による自然の相互作用を探査する場合の
限界を表した初期の動物行動学における
生物と環境の関係を取り扱う概念であって
自然の原理ではない。
従来のテクノロジーを限りなく「改善する」という
発明の概念を否定しなければ
自然の原理は発見できないだろう。
原理はより改善された究極の自然の姿ではないはずだ。
「より良くする」というエコロジーこそ
ほとんど自然を腐敗させてしまっている。
この腐敗エコロジーは地球温暖化説とともに増殖している。
開かれた知識
公開講座が市民のために無料で開かれているのは
政府が大学に補助金を払っている限り
大学は市民に教育サービスをする義務があると考えているからだ。
NHKなどの放送大学も同じ理由で講義は
インターネットで公開されている。
しかし、そこには<開かれた知識>は存在しない。
<精神>が開かれていない限り
教える側と学ぶ側の<開かれた知識>は
もはや教育の対象ではない。
それが互に閉じたままだからだではなく
蓄積できる知識を理解することが互いに簡単だから。
実際、単位と授業料は
精神の自発性(know why)とは無関係に交換可能なのだ。
非同時的ネットワーク
<謹賀新年>とは名詞である。
この名詞から<時差>を思考できない。
海を隔てた大陸間の遠隔では
同時的に<謹賀新年>を共有できない。
<謹賀新年>は局所的である。
非同時的な銀河系に
同時的ネットワークは機能しない。
元旦は
非同時性からの逃亡を
同時に始めるための局所的なリセットなのだ。
方法序説
バックミンスター・フラーの思考方法は
アインシュタインの思考方法の<再現>から始まっている。
『コズモグラフィー』はその再現過程で発生した
方法の独創性を要約したメタフィジックスである。
その思考方法こそ、自己規律を含む
シナジェティクスの方法序説なのである。
思考言語について
シナジェティクス・モデリングは
数学言語の3次元の置換形式、またはその置換過程ではない。
まして、個人的で孤立的な活動ではない。
シナジェティクス・モデリングは
25世紀間も継続していた幾何学上の思考言語と
その在り方を理解し、またはそれらを破壊することにある。
芸術には本来、技術の在り方を理解する行為が含まれるが
しばしば表現技術からその目的が排除されるように
シナジェティクスモデルの具体例であるテンセグリティモデルは
張力技術のアイコン(=偶像)に無意識的に置き換えられてきた。
その結果、テンセグリティの張力部材に
ゴム紐のような弾性体が使用され工学的な統合性が消失したのは
観察者が個人的で孤立的な活動に始終しているからである。
構造とは何かは、テンセグリティによってはじめて定義された。
その定義した思考言語こそ
観察者の言語構造の破壊、またはその再構築に関わっているのである。
関係について
ただ生きているだけという
無目的な生活は
生命の神秘を遠ざけるという
確実な外部との関係を形成している。
その関係には重さがないから
存在しないと考えているだけである。