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自然選択(natural selection)について

自然選択は自然淘汰と翻訳されてきた。
自然選択と自然淘汰とは本質的に異なる。
淘汰とは
不必要なもの、不適当なものを除き去り
他は滅びる現象を意味するが
選ぶという行為は他の排除を意味しない。
自然淘汰という翻訳語は
エコロジーをもっとも誤解させてきた概念である。
自然淘汰はグローバリズムの行動の指針である。

教育革命について

教育革命とは
教えられたことを
きれいに捨て去ってしまうことである。
安全とか
平和とか
平等とか
進化とか
理解とか
(すっかりクラウドにバックアップしてしまう方法は
偽のイニシャライズだ)
すべて捨て去ったあとには
真実しか残らないだろう。
教育革命に学校も教師も不要だ。
そして
真実にはバックアップも不要だ。

経験について

学校では蓄積された知識から物事を考える習慣を訓練する。
優れた学習でさえ蓄積した知識にしたがった
より忠実な模倣にすぎないだろう。
模倣からやがて生き残るための優れた順応の方法が生まれる。
こうして学校で何ひとつ新しい発見が望まれないのは
概念の牢獄化がより強化される場所だからだ。
学ぶとは
過去の蓄積された概念と歴史に囚われることなく
もの自体を観ることである。
もの自体を観ることの知識は
その知識自体を否定する経験からのみ習得される。

反・節約

本当の節約は
生存や生産に消費される基本エネルギーを減らすことではなく
消費されないで捨てられるエネルギーを
より少なくする発明によって
エネルギー効率を高めることだ。
原子力発電のエネルギー変換効率が約30%に対し
ガスタービンでは約60%で2倍程度も改善できる。
排熱は原子力発電の半分になる。
さらに燃料電池ではエネルギー変換効率は80%にまで改善できる。
節約はけっしてテクノロジーを生まない。
テクノロジーの陳腐化を遅らせているだけである。

有限と無限について

物理的宇宙においてエネルギー自体は増えも減りもしない。
したがって、再生可能エネルギーも枯渇性エネルギーも存在しない。
しかし、再生可能エネルギー源と枯渇性エネルギー源は存在する。
再生可能エネルギー源とは
太陽光、風力、波力・潮力、流水・潮汐、地熱、バイオマス等の
自然から反復的に補充され、地球上では<ほぼ無限>のエネルギー資源である。
<ほぼ無限>なのは、太陽の残り寿命が約50億年あるが故に
近視眼的で短命な人類にとっては無限と見なされている。
枯渇性エネルギー源とは
化石燃料としての石油・天然ガス・オイルサンド・メタンハイドレートや
埋蔵資源としてのウランによる原子力発電などから導かれ、
地球上では<有限な>エネルギー資源である。
近視眼的で短命な人類にとっても明らかに有限と見なされてきた。
太陽系におけるエネルギー源の有限性という物理的な絶対条件から
産業が意識的に形成された歴史はまだ存在しない。

続) 裏返し操作 (turning inside-out)

われわれの身体内部の元素存在度も
太陽と太陽系の元素存在度に等しいように
太陽の元素存在度も宇宙全体の95%以上の星の組成に等しい事実が
発見されてまだ半世紀も経過していない。
この発見を発見された事実と同じ宇宙規模で捉えるならば
われわれの内部の組成もわれわれの個々の無意識的な行動とパターンも
地球上では主に有機体生命が
元素存在度の分布上の加速度的な平均化を担った結果なのである。
世界権力構造による資源とエネルギーの独占システムは
宇宙による物質の組成パターンに対する平均的革命に明らかに反している。
存在とは、
外部と内部のすばらしい相互の裏返しとその往復運動であり、
絶えざる相互作用の過程なのだ。

裏返し操作 (turning inside-out)

太陽は太陽系の質量の99.87%を占有している。
そして、太陽系の元素存在度は太陽の元素存在度と
実質的には同一である事実が最初に観測されたのは、
1959年に打ち上げられたソ連の月探査機ルナ1号の無人探査機による
太陽系内の探査よりも21年も早い1938年である。
太陽系の元素存在度の発見は、驚くことに、
地上から収集可能な太陽大気のスペクトル分光分析データと
隕石の化学分析データの推論から導かれたのである。
それらはバイオスフィアの外部(=大気圏外)からよりも
内部から観察可能であった。
しかし、われわれの内部の組成もまた宇宙という<外部の裏返し>であるという
もう一つの事実はもっとも遅れて認識された。
<自分を外から見る>という行為なくしては
認識できなかったからである。
観察者を観察の対象から除外しない方法は
習慣的に科学から除外されてきた。
<自分を外から見る>というシナジェティクスの<裏返し操作>は
科学的認識の一般化には不可欠である。

未知(unknown)について

私がシナジェティクスの探求を始めたとき
既知ではなく未知(unknown)の段階からはじめた。
その方法は、私の最初の原理の発見の後に気づいたことであるが
シナジーに接近する最短距離であった。
原理を探求する前に
未知は確かに<ある>が
<知る>ことの段階には存在しないことを
直観的に理解していたのは
『シナジェティクス』を読み始めていたからではない。
バックミンスターフラーが
その第一巻を出版する2年前の出来事である。