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忠誠(faithful)

自己同一性(Self Identity)は否定的に選択される瞬間がある。
他人と別人であると同様に自分とも別人であると思える経験なくして、
原理への忠誠(faithful)は理解できない。
少なくとも生命はまだ元素の組み合わせから合成できていないという
メンタルモデルだけで、自己同一性は拡散できる。
例えば、朝目覚めるた時の自分が怖い場合は
この思考実験に成功しているだろう。

信頼

経済は変化してやがて悪化する。
道徳律もつねに変化している。
そして、宗教や国家は多数生まれてきた。
しかし、それらは人類への愛のために利用できる
原理の数よりも少ない。
しかも、原理は人間に発見されてもけっして変化しない。
宇宙はとても<信頼できる>システムを採用している。
この<信頼>を表す言葉は日本語にも英語にも見あたらない。
少なくとも宗教や国家を<信じる>という意味からは絶縁している。

頭脳教育

学ぶに老いすぎていることはないが、
学んでも思考しなければ、
こどもでさえ老いてしまう。
頭脳教育にはもっとも危険な老化作用がある。

リンク数

知ることはリンク数に置き換えられる。
同時に、受け入れる頻度とその傾向を表している。
しかし、完全理解とはリンク数ではない。
「理解」という言葉の意味が、
複雑な概念を分解し、より単純な概念に還元することだとしたら、
「理解」には統合という役目が欠落している。
経験された異なる事象を
相互に秩序づける試行錯誤がないかぎり、
「理解」された相互関係数は増大するばかりだ。
相互に秩序づける試行錯誤に
いまのところルール(または秩序)を発見できていないので
しばしばその方法を探査する人間を
無意識に独創的と言い換えている。
しかし、この言葉さえ危うい概念だ。
人間が「独りで創り出す」ことなど宇宙に存在しない。
言葉という道具の起源もまた
貨幣のように
問われることは稀なのだ。

往復2000キロの旅

高速道路を時速120キロで8時間運転すれば1000キロ程度も移動できる。
これは飛行機や船舶でのみ可能な計算方法である。
高速道路を平均時速80キロで移動したければ、
時速120キロ以上で運転しなければならない。
移動時間には休憩と食事と給油などが30%以上も含まれる。
この時間は長距離になればなるほど増加する。
平均速度を下げる最大の要因はドライバーの睡眠時間である。
自動車の移動時間の短縮には、
高性能な自動車よりも
睡眠しないロボットか
交代できる複数のドライバーが必要だ。

交換技術

昨日の午後、注文しためがねのレンズを2時間かけて交換した。
はじめて会話する若い担当者の紋切り型の接客態度と
その交換技術を見ていると寂しくなる。
新たな人格に変貌したければ、転職すればよい、
立場が変わるたびに、たずさわる言葉が変わる、
と考えている人間が私の視野を交換したからではない。
彼は眼鏡屋という専門分化で生きているが、
想像したとおり、いつ誰がレンズを発明したかを知らなかった。
イデオロギーは選択できないが
人格は交換可能な時代を生きている。
(もちろん水晶などの鉱物レンズの発明年代などだれも知らないが、
ラフェエロが近眼鏡をかけたローマ法王の肖像を描く以前に
凹レンズを近眼鏡として使用していたのは15世紀である。
凸レンズの発明の方が圧倒的に先行していたけれど、
望遠鏡が発明されたのは17世紀である。
より近くよりもより遠くを見る機能の開発は
明らかに当時のイギリス大英帝国の海上における
軍事技術の要請からだった。
視野は本来、交換不可能だ。
鳥や馬、そして蝿、トンボのように。)

Twitterの機能

人々は友人より知人のほうが多い世界を望んでいる。
どこにいても自分の状況を知人に知らせ
同時に知人の状況を把握できるテクノロジーは、
やがて誰のことばにも口を挟むが、
口数は少ないほどよいモラルを生んだ。
沈黙には堪えられない人々の機知である。

耕起民族

畑が絶えざる耕起で枯渇していくのを見て、
有機物を投入する方法を採用する
「農業経営体」という商業主義的農業者のほとんどは債務者である。
真の富の源泉は銀行に所有されている。
この5年間で農業労働者が20%以上も減少した理由である。
(高齢化によって農業をやめた人が増えたことが主な要因だとしたら
現在の都市人口の増加を説明できない。)
過剰な有機物が投入され、雑草のない畑からのほとんどの収穫物は
カボチャでさえ、1週間で腐敗している無農薬農業を
エコロジー的に肯定しているかぎり、
耕起民族は危険な債務者である。
不耕起の尊さを知るまでは、いかなる民族も栄えない。

思考力

才能ある若者が
記憶力に優れた知識人への願望に支配され過ぎると
よい思索者になれない。
その記憶のほとんどは
たいてい読書や音楽(そのすべてはもうじきインターネットにある)に
費やされるか、
あるいは、
その優れた、しかし、平均的すぎる条件反射的な読解力によって
自分自身の主観的な記憶や曖昧な出来事を
忘れることに費やされているからだ。
主観的な記憶や曖昧な出来事のカテゴリーは
記憶力ではなく、
行動によってはじめて客観的に分類できる。
単に記憶力に優れた知識人が、
すでに、僅かな電気エネルギーで不眠不休で働く
サーバー(記憶奴隷)によってほぼ陳腐化している時代こそ
行動の時代だ。

可能性と確実性

可能性とは何か
真の機能がまだ発見されていないが、
想像した美点ばかりで
自己変革と無関係に
観察から組み合わせたアイデアである。
では、確実性とは何か
その組み合わせたアイデアからは
経験的に世界は変えられないから
他人から理解されるアイデアで構成することで
失敗を免れたい時の選択肢の一つ。
なんという思考の無駄遣いだろう、
原理の存在を除外しているなら。