専門分化の組織の一員であり続けたいがために、
唯一の指導者を存在させているのである。
自然が存続してきたのは、
この組織化の方法を採用しなかったからだ。 Y.K
専門分化の組織の一員であり続けたいがために、
唯一の指導者を存在させているのである。
自然が存続してきたのは、
この組織化の方法を採用しなかったからだ。 Y.K
科学にとって、客観的とは、
意図的に開始することによって、
生起する主観的な刺激に対する反応を
経験的に秩序づける行為である。
意図は未だ
主観でも客観でもない。
言い換えれば、
あらゆる単独の実験は主観でも客観でもない。 Y.K
計算方は知ったかぶりの人間どうしの
虚勢を張ったゲームから考案された。
その結果、このゲームを独占するための利権を獲得した。
この張ったりの伝統は、
たとえば、円周率の桁数と計算速度の国家間の競争に引き継がれてきたが数学専門家には気づかれないように、
大学受験のための教育プログラムに巧妙に反映されている。
つまり、前世紀から引き継がれた受験の準備方法のほとんどは、
経験から除外された知識を扱うようになっている。 Y.K
動物園の動物はたいてい悪臭を放っている。
ところが彼らは自然界で暮らしていた時は
そんな臭いは出さなかった。
電車に乗り合わせた本格的なホームレスの隣に
ほとんどの乗客が座ることができないように、
どんな人間も風呂に入らなければ
動物園の動物以上に臭うにちがいない。
では、人間も自然界で暮らせば臭くならないのだろうか。
これは、風呂に入らなければ、
耐えられなくなった理由と同じではない。 Y.K
他人には分かりにくい知識を
わざわざ求める傾向は
専門分化そのものだ。
包括的な知識がこどもに理解できることから、
原理という包括的な知識は
単純なことに含まれていると考えてよい。
教育を受ければ受けるほど、
単純なことが回避されがちになるのは
一種の自己エコロジーの破壊である。 Y.K
宮古島の漁師が歓迎する
「PAI-KAJI」とは
「南の風」の意である。
(台風は左回転なので宮古島では北から吹いてくる)
KAJIの語源は風(KAZE)であり、舵・梶(KAJI)のことである。
風はついに所有できなかった。
それゆえに舵は操作主義的に物質化され、
見えない風と潮のために
ジグザグな試行錯誤のみを許されたが、
それらの流体に逆らって航行することができる。
危機に直面するほど政治家たちは舵をとりたがるが、
彼らは舵・梶(KAJI)をデザインしたり、
風(KAZE)の向き自体を変えたりはできない。 Y.K
仕事と生きるための方法(= 職業)は分離すべきである。
地球を救う、あるいは
地球を守るという義務感を装った
傲慢なエコロジー言語に惑わされるのは、
仕事が人間にとって
もっとも偉大な恩恵として考察されていないからだ。
すでに
最後のメタフィジクス革命から遠ざかっている。
仕事が個人の所有物になった時から
地球温暖化が始まったのだ。 Y.K
宇宙の研究は、外部の天体観察から始まった。
天球儀は外部から星群を観察する神の視点を最初に再現した。
21世紀は、シナジェティクス現象の発見から入るべきだ。
たとえば、自動車が水で走れるのは、
水素がもっともありふれた元素だからだ。
必ずしも望遠鏡や顕微鏡を必要としないからではない。
宇宙はお金に依存していないばかりか、
思考にも依存していないからだ。
われわれの思考パターンは、コロニー的要塞型の集団性に束縛された結果、
断続的で固体的、そして同時的すぎる。
風の吹いていない場所はつねに存在するが、
地球上で風が吹いていない時はない、
風はそれ自体が非同時的ネットワークである。
風は持続しないから、
だれも風を原子力のように所有できない。
これはすばらしいことだ。 Y.K
今日は明るいときからスカイプ(=和名は天女)で
朝までエンドレスな忘年会をすることにした。
飲酒は無限。
話題も無限。
私はストーブの前で玄米甘酒を発酵させながら、
芳香漂う自家製どぶろくを飲み干すだろう。
ただし正確には同時的な会話はできない。
球状ネットワークシステム上に発生する
タイムラグがわれわれを少しだけ隔てている。 Y.K