学校

学校へ行かないことは、死ぬよりもつらいのである。
だから、毎日学校で子供が死んでいる。

学校は、大気圏外よりも危険な場所に違いない。

そろそろ家に帰って、家族と一緒に暮らそうではないか。
みんな大きな家がある。
勉強は、コタツでみかんを食べながら母さんと一緒にするもんだ。
そして母さんも分からないときには、母さんと一緒に聞きに行くんだ。
聞く人は、母さんが心から尊敬できる人に決まっている。  Y.K

流体地理学

大気圏で二酸化炭素が増加しても、酸素の含有率が一定なのは
生命にとっての大気圏のシンメトリーが存在するからである。
厚い地層が強く褶曲して変形し、マグマの活動や変成作用が起こり、
やがて一大山脈となり大陸地殻に転化してゆく過程の
地殻の動的で可視的な均衡(プレートテクトニクス)以外に、
大気圏の不可視なシンメトリーが、生物の生きる場所を決定している。

バイオスフィアに[固体は存在しない]という流体地理学から
21世紀のデザインサイエンスは始まる。  Y.K

メタフィジクスと超訳

「形而上学」は、
『易経』の「形而上者謂之道、形而下者謂之器」
 (形よりして上なる者これを道と謂い、形よりして下なる者これを器と謂う)
に由来していて、
明治時代にこの概念を導入した際の頼りない、一種の超訳=メタ訳なのである。
こうした訳語は不思議とカタカナで語の本来の意味が復活する。  Y.K

メタフィジクスとフィジクス

アリストテレスは、ほとんどの重要な講義を文章として残している。
そのうち、物体の運動などこの世界の物理的現象を扱った講義録があるが、後の分類学者がその遺稿に対し、テーマごとに分類して『自然学』(physika)とした。この『自然学』(physika)の講義録には、続編があり、この現実世界の「背後」にある原理などが考察されていた。分類学者が、この講義のことを 『自然学の後に続く書』(”ta meta ta physika”)と分類した。つまり、アリストテレスの分類ではないが、自然的なものを超え自然的なものの基礎となる問題について考察する学は、21世紀でもメタフィジクス(Metaphysics)と呼ばれている。一方、フィジクスは『自然学』ではなく『物理学』だけを意味するようになった。

メタフィジクスは哲学でフィジクスが科学だと明確に分類する概念は、
古代ギリシャの『自然学』にもなかったが、
現在の『物理学』は完全に除外している。
メタフィジクスは、「科学的ではない」という常識が支配している。
超専門分化するのは、フィジクスばかりであるという
分類学のルールに従っているだけである。  Y.K

短命なロハス的思考

ロハスはヒト・モノ・カネから、ヒト・モノ・コトを対象とした。

しかし、エコロジーは、本質的に重さのない相互関係から成り立つ、
予測不可能な総体(コト)である。
(カネをコトに替えただけは、シナジーに到達できない。)

ロハスは都市型スローライフの賢い消費者になるための啓蒙である。
スローに同調するライフスタイルの問題だ。

エコロジーはスローでもファーストでもない。
自然は、超低周波から高低周波までの現実とつねに同調している。
ヒト・モノ・コトという主に可視化を対象とするロハスは、
バイオスフィアには決して同調できないだろう。
これはライフスタイルの問題ではなく直観の問題である。  Y.K

近道2

映像産業と音楽産業は、ともに巨大産業になったのは効果的に奪うことができるテクノロジーを確立できたからである。(預貯金の利子と利子率さえもこのテクノロジーで簡単に奪えることは証明されている)

メタフィジクスに接近するには、見る側も編集する側も、もう一つの現実に生きていなければ想像力をかき立てる映像と音声は生まれない。
99%の現実は、編集されたバーチャルである。
だからテレビを見るかぎり、世界は単純に見える。  Y.K

近道

人間の視覚と聴覚の不完全さを唯一補うのは想像力である。

テレビは映像と音声からできている。
視覚と聴覚に依存する生活は基本的にバーチャルである。
何かを所有するために、コマーシャルを見るという現実が生まれる。

こうして、人間が編集する映像と音声によるコミュニケーションは、
メタフィジクスに接近するよりも
フィジクスに接近する近道を提供できる。

子供にとって、映像と音声は、もっとも奪われやすい領域である。
本を読むのは、生まれてからずっと後である。  Y.K

焚き火

私は秋には外出しない。

裏庭の小枝を集めて焚き火をたいて、三度の食事を作る。
そして、満月の夜は、椎の木の葉の茂みで、明かりを消して酒を酌む。
私の小さな裏庭の紅葉は、境界もなく中国山脈の森に繋がっている。
そろそろ、獣たちもわたしの茶室に近づいてくる。

これ以上のエコロジーを望んではいけない。
何もしないエコロジーを誰もデザインできないのだから。  Y.K

見えない「ケージ」2

21世紀の農村と都市の交流は、都会人には見えない「ケージ」の中で行われている。
かつてこの「ケージ」は見える広葉樹の森に覆われていたが、第2次世界大戦後は、森との有機的農法が杉の植林とダム建設でゆっくりと破壊されたのである。
見えない「ケージ」とは、補助金である。
この補助金はどんな収益事業でも収入として計上される。
この会計学が、ほとんどの事業の本質的な失敗を回避させている。
見えない「ケージ」は、金融経済の隠れ箕である。
贈与経済の研究は自由経済圏では禁止されている。
一切の研究費は認められていない理由である。

補助金は工業社会の生み出す膨大な余剰利益の変形であるが、日本の農村だけではなくアメリカが主導する世界経済の特徴でもある。  Y.K