昼は、カッコウが鳴き
夜は、フクロウが鳴く頃、
植物は、一斉に発芽し、爆発的に成長を始める。
昼となく夜となく、
重なったまま大地を覆う落葉から
緑の風が生まれてくる。
昼は、カッコウが鳴き
夜は、フクロウが鳴く頃、
植物は、一斉に発芽し、爆発的に成長を始める。
昼となく夜となく、
重なったまま大地を覆う落葉から
緑の風が生まれてくる。
梅雨がやって来る前に
森で小さな焚火をして、コーヒーを沸かしていたら
宮島の弥山周辺の巨石群に生えている
美しい垂直な岩草原を想いだした。
五月の一つ葉シダが群生して、海からの風を写し取っていた。
幻の宮島シダを幾度も探していた10代の頃の
その巨石群の頂上での瞑想は、絶えず<緑の風>に満たされていた。
あの巨石群に、ふたたびコスモグラフィーに連れ出す
垂直な<緑の風>が吹いている。
この瞬間に、太陽が黄道上でプレアデスと重なっている時空さえも。
生存一般を限定している諸概念から、
生存方法を解放するために構造を破壊するのは哲学である。
しかし、諸概念が消し去っている生存の可能性に立ち戻らせるために
構造を生成し解放するのは、シナジェティクスである。
実践的デザインサイエンスは、
テロ対策の背景にある自由と人権に制限を加える政治的な観念、
さらに、人間の生活に関する普遍的必然という観念に対立する。
シナジェティクスにおける構造の分析とは、構造が持っている恣意性を明らかにし、
実践的シナジェティクスは、
普遍的な構造とパターンにおいて自由な空間をいかに享受することができるかという
デザインサイエンスの領域を共有するだろう。
内部空間の質的変化をさらに生み出すことができるかを明らかにする行為が
建築コードと対立しないまま、例えば、モバイルシェルターを支える構造とパターンも
発見されなかっただろう。
これまで発見された自然の構造が、
人間の独創性から生み出された構造と一致したことがないのは、
ほとんどの構造の恣意性が、間違った独創性への欲望から作られているからだ。
ある感覚や刺激の相違を感知する境界の概念が心理学にあるように、
真実を伝える人々の信憑性に関する<閾値>(=最小限値)によって、
政治システムは、個人の主観と客観に委ねられる思考の仕組みを
もっとも怖れている。
政治システムに委譲する都合良い社会的な<閾値>が、
恐怖感によって操作可能な限界が暴かれるからではなく、
権力構造が普遍的なものに背く時代の中で
その思考の仕組みは、思考の主体を、けっして彼らに委譲しないからだ。
そして、権力構造がより個人に浸透し浸食すると同時に、黄昏れていくのである。
真実を伝える人々の信憑性に関する<閾値>の普遍性によって。
政治が普遍的なものに背いても
だれも弾劾できない仕組みには
だれも背かない場合、
主体は社会にも個人にも形成されていない。
主体が、もう一方の存在と相互作用する関係をもつ存在であるなら、
さらに、その主体が社会を構成する基本単位であるなら。
主観と客観(subject and object)の相互作用は
もっとも矯正されやすいが故に、
主体なき主観が、政治的かつ経済的な現実を捏造する。
主体なき主観は、独裁の根源である。
電力グリッドや上下水道システム(=人工物)から遊離した
個人用のモバイル・シェルターには、
謂わば哺乳瓶の授乳機能のようなエネルギーを受容する機能だけではなく
バイオ装置による水の再生機能が与えられている。
モバイル・シェルターは、バイオスフィアへ帰還するための
超人工物(trimtab)である。
二重の客体化は、支配のための優れた思考方法なのである。
しかし、決定的に統合化のための思考方法ではないだろう。
シナジェティクスは、
統合化のための思考方法を非同時的なモデリングで探究する。
経済システムのデフォルトが予測できるのは
経済システムが非科学的な人為的予知ゲームだからである。
最新の地震学では、地震予知は不可能と見なしている。
しかし、3.11以後も地震の予知が継続しているのは
狡賢い科学者たちが、高額な研究補助金を獲得するための
疑似科学的な予知ゲームだからだ。
テロによって国家は、
世界的規模での情報収集、管理、拘束の必要に迫られたのではなく
軍用の分散型の通信システムが民間の投資によって
世界的規模のインターネットに成長したから
エネルギーと水資源、そして食料に対する世界権力の独占欲が加速し、
より短時間に、より少ないエネルギーで、個人を管理し拘束する
地球規模の分散型テクノロジーが一般化したのである。
それは、世界中の個人が、高価な設備投資を毎月負担しづづけた結果なのである。
抜け目ないテクノロジーは、つねに分散型である。